XV
雨の日の学校は、嫌いじゃない。普段は、僕の方から息を切らして、遥か遠くの現実の世界へ近づかなくちゃならない。だけれど、今日みたいな朝は、現実の世界の方から、僕の方へ歩み寄ってくれる。その代償として、僕と現実の境目が曖昧になって、僕は度々、ふわふわとした浮遊感に襲われることになる。
小雨陸。心にはいっつも、パラパラ、パラパラ、中途半端な小雨が降り続いている……。
左利きの人が、右手で傘を持つ。周囲に変人と思われるだろうか? でも、仕方がない。今朝の小雨鈴虫、つまりパパも、僕と同じように、現実の地面スレスレで無様な不時着を繰り返していたから。
そんなことを考えながら、雨の道を歩いていると、校門の前に、なにやら傘をさした数人が、立ち話をしているのが見えた。
川崎先生だ。それと、髪を七三分けにして高級そうなスーツに身を包んだ大人の男性。蝙蝠みたいな傘を持つ右手首に、ゴツゴツした腕時計が自慢げに光っていた。
そしてもう一人。あれは……西園寺竜だ!
リーゼントの髪型に特攻服の、いかにもヤクザな風貌。大人顔負けのがっちりとした体格で、首には水晶玉のような数珠がぶら下がっていた。
よくパーツの整った、男でも惚れてしまいそうなほど品のある美しい顔立ち。薄い眉の下からのぞかせる、鷹のように鋭い眼は、冷酷なまでの実力至上主義と鋼のようにブレない正義心を周囲に知らしめるかのように、ギラギラとした輝きを放っていた。
僕は、傘の位置を低くしながら、そうっと三人の方へ近づいた。なにやら雨の音に混じって、三人の話し声がうっすら聞こえてきた。
「……『幸せ』の語源は、し合わす、だとされていてね。つまり、なにか二つの動作が、合う、状態にあるということ。めぐり合わせ、に近いニュアンスかな」
「まだ終わんねえのかよ、センコウ。こっちは、クソ親父に呼ばれて雨の中わざわざ時間を割いて仲間を待たせてんだよ」
西園寺がさりげなく視線を送った先には、改造バイクに跨る暴走族らしき集団が、距離を置いて、シンと大人しく雨に打たれながら、西園寺を待っていた。
すると、高級スーツの男、おそらく父親だろうか、無言で傘を大きく振りかぶって、西園寺をどついた。びしゃっと跳ねた傘のしずくで特攻服が濡れた。
「……あとちょっとだから、もう少し先生の話を聞いてくれる? ……それでね、『幸』の甲骨文字を調べると、元は『手錠』の形をしていたことがわかったの。どうして、しあわせ、にこの漢字が宛てられるようになったのか、不思議に思わない?」
「もういいか? 俺は行くぜ」
西園寺が背を向け歩き出そうとした、その時。高級スーツの男が素早く傘を持ち替え、片方の手で西園寺の後ろ髪を鷲掴みにすると、強引に頭をねじった。ガツン。男は容赦なく、西園寺の美しい顔面を殴った。傘がふわりと宙を舞い、西園寺は、雨に濡れたアスファルトの上に倒れ込んだ。
「お前っ、先生に向かって、なんて口の利き方をするんだ! 意地でも校門を潜ろうとしなかったのは、お前の方だろっ! 他の同級生は、毎日こうしてちゃんと学校に登校しているんだぞ!」
左頬を真っ赤に腫らした西園寺は、びしょ濡れになった髪の隙間から、男を鋭く睨みつける。
やがて、思い出したかのようにフラフラ立ち上がると、地面の傘を拾うこともなく、雨に打たれながら仲間の許へ歩いていった。
「教室に竜君の席、ちゃんとあるから! いつでも学校に来ていいんだからね!」
先生の叫びは、雨の音でかき消されてしまう。聞こえているのか聞こえていないのか、西園寺は振り向きもせずに、こちらに中指をピンと立てて見せる。ファック! そうして、仲間の待つ方へ歩いていく。傘を一本も持たない仲間の許へ……。
男は、顔をしかめながら、汚いものでも扱うかのように地面の傘を拾い上げると、先生の方に向き直し、台本を読むみたいな抑揚のない調子で謝罪を繰り返した。
「お父様、私は構いませんから、それより竜君のご心配をなさってください。心を通わす努力を根気よく続ければ、いつかきっと竜君もわかってくれるはずです。担任である私も、僭越ながら、竜君の更生に出来得るかぎりの協力はさせていただきます」
先生は、きっぱりとそう言い切った。
男は、いかにもな謝辞を述べ、適当な挨拶を済ませると、足早に校門を去っていった。
「……西園寺家の恥さらしめ」
去り際、男がそう呟くのを、僕は決して聞き逃さなかった。
いつの間にか、靴の中に雨が浸水して、靴下が冷たくなっていた。
放課後。ニワトリ小屋と小さな花壇のすき間に、僕は、体をはめるようにしゃがみ込んで、いつものように時が過ぎるを待っていた。
雨は降り止まない。当然のように。傘はささない。邪魔だから。小屋の天井からわずかにはみ出た、心許ないトタン波板の屋根だけが、僕を雨粒から守ってくれていた。
屋根の上から、雨のしずくが、幾筋もの線となって垂れ落ちてくる。花壇のカタクリの花が、泣いているみたいに頭を揺らして、雨粒を弾いていた。
「これ、食べる?」
僕は、食べ残した給食のパンのかけらを給食袋から取り出した。名無しのニワトリが、興味深そうにこちらに駆け寄って来る。あ、金網の手前でまた派手にずっこけた。いてて。
金網の隙間にパンのかけらをねじ込んでやる。名無しのニワトリは、見事キャッチ。嬉しそうにパンをついばむ様子を見ているうちに、濡れた服の冷たさや日常の疲れのことなどが、どこか遠くの国の話みたいに、僕の心から離れていった。
「陸くん」
背後から声が聞こえて、僕はビクンと振り返る。そこには、桜色の傘をさした川崎先生が立っていた。
「今日もパパのこと、待ってるの?」
ペチャっと潰れた鼻を膨らませて、小粒な眼をキラキラ輝かせながら、先生はそう尋ねてきた。僕は、先生を右斜めの角度で見上げながら、とっさに答えた。
「はい、そうです」
名無しのニワトリは、無心でパンのかけらをついばんでいた。
「こんな雨の日に外で待っていたら、風邪引いちゃうよ」
「平気です」
「ええ、どうして?」
「僕は強いから」
「強いと風邪を引かないの?」
「先生の方こそ、こんな所にいたら、風邪を引いちゃいますよ」
「たしかにそうね。陸くんは、優しいね。私のことまで心配してくれて」
先生が見ているであろうウソの僕が、何とはなしに会話を続ける。パンのかけらを完食した名無しのニワトリが、おかわりを要求して、金網にくちばしをぶつけた。ごめん、もう持ってない。腹八分目で許してくれよ。満腹なんて贅沢、僕らには似合わないんだから。
すると先生が、肩にかけた黒色の鞄を探りながら、ふいに言い出した。
「実は、陸くんに渡したいものがあってね……」
鞄から取り出されたのは、一冊の単行本だった。カタクリの花が、雨に打たれて怯えるようにビクンと震えた。
「どうかな、これ。一人でいるときに読んでみたら、きっと楽しいと思って」
僕の視界に、こっちを向いた本がスーと入り込んできた。
『幽霊塔』という題名の本らしかった。著者は……江戸川乱歩。誰それ、知らないや。 僕はしゃがみ込んだまま、舐め回すように先生の顔色をうかがった。先生は、まるで『この世界は幸せに満ちているよ』と言いたげな、儚げな表情をしていた。
僕の両手が、どっちつかずに宙をさまよっていると、先生が見かねて続けた。
「陸くん、本は読む? 私は好きで、学生時代によく読んでいたなあ。それこそ先生に、本ばっか読んでないで勉強しなさいって叱られるくらいにね。今勉強してんじゃん、ってその度に言い返してさ」
僕は、会話のボールを投げ返す代わりに、おそるおそる差し出された本を受け取った。トタンの屋根から落ちてくる雨のしずくで、すこし本が湿った。
「もちろん、無理にってわけじゃないけど。無性に寂しい時とか、それ読んでみてよ。きっと気が晴れると思うの」
先生は、さも嬉しそうに微笑んでみせると、「風邪引く前に、帰るんだよ」と言い残して、足早に去っていった。
僕は、先生から貰った本を、防弾チョッキみたいにして体の前に抱えてみた。先生が校庭の土に残した足跡は、いくら雨に打たれても、くっきりと形を残していた。
名無しのニワトリが、今度は羽ばたくように翼を広げて、ずっこけた。
朝の教室は、主張で溢れ返っていた。
自分の為に太陽が昇って、自分の為だけの一日が幕を開ける。そんなことを信じてやまないような顔で、クラスメイトたちは、フラフラ自由に立ち歩き雑談を交わしている。いいよなあ、朝から元気で。
先生から貰った本に目を通してみようと、僕はランドセルの中を探った。あった。引っ張り出してみると……それは、雨水を多量に吸い込んで膨れ上がった、別のなにか、であった。インクが滲んで絵は滅茶苦茶に崩れ、もはや表紙の『幽霊塔』の文字も判然としない。端を摘まんで持ち上げると、ポロポロと形を失い、液体みたいに机の上に落下した。
ああ、やっぱり、こうなるんだ。最初から知っていた。だから僕は、受け取るのが怖いんだ。受け取ってしまえば、あとは全部、僕の責任になるから。たとえ、何一つ覚えていなくても。
最初から、わかっていたんだ……。
僕は席を立つと、ブヨブヨして湿った、別のなにかを、黒板前の青いゴミ箱へ放り投げた。ゴミ箱が嘲笑うようにバコンと揺れた。
パカ、パカ、パカ……。すると、廊下の方から、川崎先生がスリッパを引きずる音が聞こえてきた。先生に見つかる前に、僕は急いで席に戻った。
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