IX
ガラガラガラ……。
『5ー3』の教室へ入った僕は、出席番号を頼りに、自分の座席を探す。あった。陽の当たらない廊下側。影になった、やけに肌寒い場所。
誰からも話しかけられず、かといって、誰に声をかけるわけでもなく、僕は一人、席に着いた。
もうとっくにチャイムは鳴っているというのに、クラスメイトたちは滅茶苦茶に立ち歩いて、雑談を交わしていた。僕の視線は、ボロい洗濯機で渦を巻くしなびたシャツみたいに、あっちへこっちへ忙しなく動き回る。いいよなあ、朝から元気で。
ガガガバッチン!
勢いよくドアが開かれると、そこには、先ほど柱時計の前で出会った女性の先生が、出席簿を抱えて立っていた。
「はい席についてー出席とるよー」
まさか、あの先生が僕のクラスの担任だったなんて! パカ、パカ、パカ。先生は、明らかにサイズの合っていないスリッパを引きずりながら、教卓の上に出席簿を広げると、グルっと教室を見回した。
「じゃあ一番から名前を呼ぶから、大きな声で返事してねー」
付け入る隙も与えずに、先生は手早く呼名を始める。クラスメイトたちは、慌てて自分の座席へ戻り、先生の呼名に応えた。
「……六番、小雨陸くん」
「はい」
先生は、僕の返事に目を合わせ、一瞬だけ微笑んで見せると、すぐさま視線を出席簿の上に戻した。
「八番、西園寺竜くんは……今日は、お休みかな」
『今日は』という先生の言葉に、クラスメイトたちは一斉に、ひくっと肩をすくめた。
西園寺竜は、ここ照定小学校の生徒で一番の問題児。いわゆる、筋金入りのヤンキーである。
外銀に勤めるエリートな父親から、過度な期待を背負わされていた彼は、順当なエリートコースを歩むべく、幼少期から過酷な英才教育を受けていた。
その異常なまでに厳しい家庭教育の反動からか、学習塾をサボり公園のベンチに腰かけていたところ偶然見かけた、暴走族の集団運転に見惚れ、そのまま入隊を決意。顔見知りであった当時中一の先輩をツテに、肝の据わり具合と抜群の毛並みの良さを買われ、暴走族に即入隊した。
異例の若さであり、また類を見ないほどのスピード入隊であった。
すっかり人の変わってしまった彼は、以後、今に至るまでの二年間、家庭のしがらみから逃れ、ようやく手に入れた自由を謳歌するかのように、暴走族の若き舎弟として、夜な夜な非行を繰り返しているのだという。
ゆえに、西園寺竜が真面目に学校へ登校することなど、天から槍が降ってくるよりも有り得ないことなのである。
おそらく新任の先生は、照定小学生に通う生徒ならば誰もが知っている西園寺に関する噂を、まだ耳にしていないのだろう。
「……これで出席確認は以上ね。みんな、とっても良いお返事でした」
黒ぶちの丸眼鏡からのぞかせた小粒な瞳が、宝石みたくクリッと光り輝いた。
「ええと、まずは私から自己紹介をしようかな。その後、みんなには自己紹介をしてもらうねー」
そう言うと、先生はクルっと背を向け、なにやら黒板にバカでかい文字を書き始めた。
『川崎幸子』
誰がどう見ても、チョークの文字はそう読めた。
「先生の名前は、かわさきさちこ、って言います。そうね、先生の趣味とか、好きな食べ物とか、プライベートな話をしてもいいんだけど、ここでは……」
すると川崎先生は、チョークで『幸』の一文字をグルっと大きく円で囲んだ。
「この漢字の成り立ちについて、みんなに紹介しようかと思います。この漢字が表す意味といえば、そう、『幸せ』ですよね。『幸せ』の意味するところは、人それぞれ違うかと思いますが、『幸せ』それ自体の語源は、し合わす、だとされています。つまり、なにか二つの動作が、合う、状態にあるということ。めぐり合わせ、に近いニュアンスでしょうか。昔の人々は、なにかとなにかが偶然めぐり合うことを『幸せ』と解釈したようなのです。では、『幸』の漢字それ自体の由来は、一体どんなものだと思う? みんなも一緒に考えてみて。聞いてビックリするから」
幸せ、か。僕にとっての幸せとは、せいぜい無料で自販機のジュースを買いまくることか、あるいは、なにもかもを忘れてゲーセンで遊びまくることくらいだろうか。
「実は、『幸』の甲骨文字は『手錠』の形をしていたことが判明しているんです。『幸』の漢字が、元は手錠の形をしていただなんて、驚きじゃない? どう考えても、手錠が『幸せ』と結びつくとは思えません。学者の解釈もまちまちだそうです。どうして、しあわせ、にこの漢字が宛てられるようになったのか、思いつくことがあれば、いつでも先生に言って欲しいな。先生、生きてさえいれば、いつでも聞くから」
そう冗談交じりに締めくくると、先生は、黒板の『川崎幸子』の文字を、『幸』を囲んだ円ごとザザーと消して、『自己紹介の発表』と書き直した。
自己紹介、か。僕にとっての自己紹介とは、演技力を試される修羅の試験に違いなかった。なぜなら、他人に僕の素性を知られてはいけないから。絶対に。
命に替えてでも、僕の秘密は、知られてはいけない。
「……じゃあ次、小雨陸くん、発表をお願い」
「はい」
僕は立ちあがると、深く息を吸って、当たり障りのないことを語りはじめた。好きな食べ物も、趣味も、好きな音楽も、本当はなんにもない。だから、その場で適当に思いついたことを、抑揚をつけながら、調子よく喋ってみせる。
心配は要らない。皆が見ている。上手く騙れていることを教えてくれる。
僕は、噓の楽器を従える天才指揮者なのだ。
放課後。僕は、学校のニワトリ小屋の隣で、時間が過ぎ去るのを待っていた。
小屋の横には、それはそれは小さな花壇がある。誰も手入れをしていないから、雑草は伸び放題だ。
だけれど、そこに季節の花が一輪、咲いているのを、僕だけが知っていた。しゃがんで、季節の花に顔を近づける。下を向いた赤紫の花びら。昔、授業で春の野草の種類を習ったことがある。多分、カタクリの花で、合ってると思う。
小屋のニワトリが、金網にくちばしをぶつけて、派手に転んだ。名前がないこのニワトリは、生まれつき右足が不自由で、いつも片足を引きずるようにして、小屋の中を歩き回っている。まるで『僕は弱くない』と周囲に知らしめるかのように、何度も転んでは起き上がりながら、小屋の中で一人、戦っている。小さな瞳を潤ませながら。
なぜだか分からないが、そんな名無しのニワトリが、僕は好きだった。
妙に落ち着く、安心の空間、その二。
「陸くん? そんなところで、なにしてるの?」
すぐ背後から声が聞こえて、ハッと振り返ると、そこには、担任の川崎先生が立っていた。
「お友達と待ち合わせ?」
この場所で他人に話しかけられるのは、これが初めてだった。僕は急いで、先生の左側に立ち直す。
「パパを待ってるんです」
怪しまれないように、とっさにそう口に出した。
「パパ? ……あ、そういうことか、パパが家に帰ってくるのを待ってるんだね。いつもそこで、パパの帰りを待ってるの?」
僕はわざとらしく頷いてみせた。
「パパは何時くらいに帰ってくるの?」
「八時」
「え、夜の八時?」
だから、そうだと言っているじゃないか。僕は苛立ちを隠すように、ニワトリ小屋に目線を向けた。名無しのニワトリが、またずっこけた。
「あんまり遅くなり過ぎないように気をつけてね。門が閉まっちゃうよ大変よ」
先生は、僕の頭にポンと手を触れると、背を向け歩き出そうとした。
「そういえば、お父さんによろしく伝えておいてね。陸くんの家庭訪問の件」
思い出したようにそう言い残すと、今度はちゃんとサイズの合ったシューズで、先生はスタスタと校舎の方へ戻っていった。
お父さん。パパ。小雨鈴虫。美しい音色を奏でる二枚の羽。だけど空を飛べない、役立たずな二枚の羽。リンリン、リンリン。羽の音は、受話器の周波数からはじかれてしまって、電話では絶対に聞き取ることができない……。
ふと夕陽に照らされた校舎の方を見上げると、職員室の窓から、川崎先生が忙しそうに机に向かっているのが見えた。
先生は、一体なんの用事があって、外へ出ていたんだろう。
ああ、いけない。他人の心配をしている余裕なんて、僕にはないんだった。
僕は、中身のないガランドウになったみたいに一人、時が過ぎ去るのを待ち続けた。
「陸くんのお父さん、なんだか絵に描いたようなイクメンって感じがしたなあ」
家庭訪問の帰り際、全身鏡のあるエレベーターの中で突然、川崎先生が僕に話しかけてきた。
もちろん僕は、先生の左側に立っている。依然として、ウソの僕しか見ていない。ホントの僕のことなど、知る由もない。
「分かるんですか?」
「うん。こうして何度も家を訪問していると、家の雰囲気とかで、なんとなく家庭内のことが分かるようになってくるのよ。まあでも、私の妄想に過ぎないことには、変わりはないんだけどね」
嘘だ。先生は、なんにも分かっていない。昔はかっこよかった、だけれど今は、ボサボサ頭にヒゲ面のみすぼらしい姿になってしまったパパのことを。ママに見捨てられて、仕事も止めて、世間の目から逃げるようにして、ここに住み着くようになった、パパのことを。
僕のママは、かの有名なグラビアアイドル、京葉晴だった。
ひと昔前、京葉晴は、スタイル抜群の細身な体に小さな口から小悪魔的にのぞかせる八重歯が同性からも絶大な支持を得て、当時はバラエティー番組で特集を組まれるほどの人気を博していた。現在は、絶頂期ほどではないものの、根強いファン層を獲得したおかげで写真集や雑誌の売れ行きも好調、それなりに高い収入を維持しているという。
そんな人気アイドル、京葉晴とパパとの出会いは、ファースト写真集の発売を記念した握手会だった。
当時、変幻自在に格好を変えながら様々な職を転々としていたパパは、なけなしの貯金をはたいて、ママの握手会やイベントに足繫く通っていた。すると、驚くべきことに、常連であるパパを認知していたママが、次第にパパを気に入りはじめたのだ。理由は『私の体でなく心を見てくれた唯一の男性だった』かららしかった。
ちょっとした好意は、やがて、身を焦がすほどの情熱へと姿を変えてゆく。そうして、なぜだか惹かれあう身分の異なる二人は、マネージャーにさえも隠し通した密会を繰り返すうちに、ついに取り返しのつかない不祥事を起こした。
ママの腹に、僕の命が芽生えてしまったのだ。
まだ過渡期だというのに、ファンの一般男性との逢引、ましてや二人の間に子供が授けられただなんて、世間に知られれば、もはや、当事者だけの問題では済まされなくなる。
やもなくマネージャーに相談したママは、事務所の最上階で、偉い大人たちに朝から晩までこっぴどく叱られた挙句、当人の意志を汲んで、休止期間を設けて僕を産んでしまい、以後、僕とパパとは一切の関わりを絶つことに決められたのであった。
そうして産まれた、いや、産まれちゃった僕に『小雨陸』と名付けた後、ママは、僕とパパを置き去りにして、再びマスメディアの大海へ戻っていった。
もしママが、パパと籍を入れていれば、ママの本名は『小雨晴』になっていたらしい。雨なんだか晴れなんだか、よく分かんない名前だ。あーへんなの。
「パパは、僕のことをあまり気にしてくれない」
「そんなことないと思うよ。本当の気持ちを伝えるのが苦手なんじゃないかな。少なくとも先生は、そう感じた」
外聞ばかり気にして肝心の中身を気にしない、パパの悪い癖に、先生は完全に洗脳されているらしかった。
まあ、それも仕方のないことだ。なにせ僕とパパは、結託を結んで、秘密を絶対に口外しない、誰にも知られてはならないと、固く誓ったのだから。
マスの大海を優雅に泳ぐママを、暗い海底へ引きずり下ろさないために。偉大なママの忘れ物が、ただの忘れ物であり続けられるように……。
そうして、エントランスから先生を見送った僕は、リンリン、リンリン、淋し気に鈴虫の羽音が聴こえる家に舞い戻るのであった。
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