8

 就寝前と何一つ変わらない景色の中で、俺は目を覚ました。

 今、何時だ? 手元が無意識的に時計を探すも、ここが『家』であることを思い出して、寝起きには似つかわしくない、大きなため息をついた。

 二階には、すでに大勢が集まっていた。

 ソファーに座り込んで眠そうに目をこするカガチ。金髪の毛先をいじくるカベイラ。部屋から持ち出したらしい等身大の戦隊ヒーローフィギアとボクシングのマススパーをするかえで。渋々それに付き合ってやる明菜。落ち着きなく部屋をうろつく守。なにやら中腰になって、ぼんやり暖炉の炎を眺めるグレンの姿もあった。

「おはよう。よく眠れたか?」

 守は俺の存在に気づくと、足を止めて声をかけてくれた。あまり休めていないのだろうか、頬は落ちくぼみ、目の下にはクマがうかがえた。

「おはようございます。まあ、それなりには」

 ここで俺は、とあることに気づく。

「あれ、一初さんがまだ来ていませんね」

 そう、あれほど率先して皆を先導していた一初の姿が、部屋のどこにも見当たらないのだ。

「まだ寝てんじゃねえのか、あいつ」

 すると、ソファーに座るカガチが、あくびを嚙み殺しながら言った。

「あの後、三回目の鐘が鳴るまで、二人でずっと起きてたんだよ。さすがに部屋に戻って寝ようとはしたが、やけに神経が昂っていて、おかげでほぼ貫徹状態さ」

 アルコールの入った二人は案の定、守の助言もむなしく、睡眠も忘れて話耽っていたらしかった。

「そろそろ様子でも見てこようか。一人だけ寝ボケてたんじゃ、面目が立たないだろ」

 ゆらゆらとソファーから立ち上がると、カガチはエレベーターに乗り込み三階へ向かった。

「……そういえば」

 カガチを見送ったところで、守がぽつりと呟いた。

「ハットリさんにはまだ、伝えていないんだった。新たに見つかった、八人の共通点」

 なんだって? 雰囲気から察するに、おそらく他の七人は、すでに共通点について知らされているらしかった。

「誕生日の他にも、実は奇妙な共通項があったんだよ。どうして今まで気づくことができなかったのか不思議に思えるくらいに、ヒントはすぐそばにあったんだがね。ヒントは、鐘のメロディだ」

 誰もが聞いたことのある、あの四音階からなるウェストミンスターの鐘のメロディのことだろうか。

「これを発見した時、主催側の狂気的なまでの用意周到さに、思わず寒気すら覚えたよ。実は、八人全員の……」

 ドドドドッ!

 すると、とつぜんエレベーターの方から、なんども扉を殴るかのような音が、断続的に聞こえてきた。この場にいる誰もが驚き、弾かれたように扉の方に顔を向ける。

 音が止むと、今度はすぐに駆動音に変わり、やがて、ゆっくりと扉が開かれていく。扉の向こうに立っていたのは……。

「はじめ、一初が……」

 額に玉の脂汗を浮かべたカガチが、顔も真っ青にガクガク肩を震わせ、今にも崩れ落ちてしまいそうな膝を必死に両腕で支えているではないか。

「どうした、なにがあった」

「一初が……部屋で、死んでる」

 懸命に絞り出したようなカガチの声が、重々しく部屋に残響した。

 大理石調の壁に囲まれた部屋の中央には、スタインウェイのグランドピアノが置かれている。難解そうな本が積まれた壁際の本棚、その手前の位置に、一初は変わり果てた姿で倒れ伏していた。

 白シャツの背中に、真っ赤な薔薇の花が咲いている。丁度おしべの位置から突き出ているのは、パン切り包丁だろうか。黒の柄からのぞかせる銀の刃身が、ギラギラと部屋の照明を反射していた。

 色彩を失った顔に、まっすぐ虚空を見つめる、濁ったビー玉みたいな瞳が二つ。『あ』と発音するかのように、口元は少しだけ緩んでいた。

 濡れた鉄みたいな濃厚な匂いが、こちらにまで届けられて、俺は思わずむせ返った。

 脈を測らずとも、すでに死亡していることは明白だった。

 ……信じられない。昨晩まで、あれほど元気に喋り、動き、まるで遭難した八隻の船を導く夜の一番星みたいに輝いていた一初が、こんなにも痛々しい姿で発見されるなんて。

 悲鳴を上げる明菜。つられて破裂するように泣き出すかえで。ショックに呆然と立ち尽くすカベイラ。声もなく嗚咽するカガチ。冷ややかに部屋を見下ろすグレン。

 まさか、この中に、仲間を殺して自分だけが助かろうと企んだ薄情卑劣な人間が、なに食わぬ顔で息を潜めてるとでもいうのか……。

 守が、絶望に打ちひしがれる皆を押し分けるようにして、すがるように一初の前に躍り出た。手早く脈を確認すると、首を二回、横に振ってみせた。

「駄目だ。……もう彼は、目を覚まさない」

 守は、近くにあったピアノ椅子を蹴り飛ばすようにして足で遠ざけると、糸の切れた操り人形みたく、ベタンと床の上に座り込んだ。

 こんなにも惨たらしいことを、一体、だれが……。

 すると、次の瞬間。奇妙な浮遊感に襲われ、とたんに目の前の景色が、ザーと書き換えられていった。

 ここは、家の中だろうか。うす暗くて周囲の状況は判然としない。埃っぽい窓に雨粒が激しく叩きつけていることだけは、かろうじて判った。視線の低くなった俺は、なにやら白い枕を前に立ち尽くしている。視界の下から、銀色に光る物体が取り出された。これは……包丁だ。俺は、包丁を握っているのか。すると俺は、白い枕に目がけ、躊躇なく飛び込んでいく。ぼふん、と体が跳ねると、起き上がり、ふたたび枕に目がけて飛び込む。これを、執拗に何度も繰り返す。何度も、何度も……。

「部屋を詳しく調べたい。先に二階へ戻っていてくれないか」

 守の暗く沈んだ声が、俺の意識をフッと現実世界へ呼び戻してくれた。

「でもよ、おっさん。この中に、こいつを殺した犯人が……」

「黙れ! 戻れと言っただろう!」

 今までに見せたことのないほどの物凄い剣幕で、グレンを一喝する守。年の功で勝ったのか、グレンはしゅんと萎縮してしまう。

「なあ、最後にもう一度、死に顔くらい拝んだっていいだろ?」

 カガチの懇願に、守は静かに頷いた。カガチは、ゆっくりと一初の死体の方へ歩み寄ると、そっと頭を持ち上げ、瞼に指を添えてやる。

「ああ、ダメだ。硬くなって、眼を閉じてやれねえよ。閉じてやれねえ……」

 一初の頭を抱いたまま、カガチは、打ちひしがれたように天を仰ぐのであった。

 その後、一同は、手を合わせ黙祷を捧げると、どうすることも出来ず、ただ守の言うとおりに魂の抜けたようにエレベーターの方へ行進した。

 それにしても……先の幻覚のような現象は一体、なんだったのだろう。なにかのフラッシュバックか。だが、あんな場面、まったく身に覚えがなかった。

「チクショウッ! ここまで完璧にやってきた。完璧だったんだ! なのに……どうして、防げなかったんだ」

 去り際、そんな悲痛の叫びが、一初の部屋から漏れ聞こえてきた。

 越えてはいけない一線を、越えてしまった。そして同時に、これが奴の思惑通り、ゲーム開始の合図になるであろうことを、俺は朧げながら悟った。

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