7

 周囲の壁に、大小様々な黄銅の歯車が所狭しと浮かんでいるのだ。数え切れないほどの歯車たちは、互いに噛み合い連動しながら、まるで一体の巨大な生き物のように複雑な運動を繰り返している。二階の壁に描かれた歯車の絵は、この部屋を暗示していたのだろうか。 

 部屋には常に、ガシ、ガシ、ガシとまるで巨人が足踏みするような、低くくぐもった音が、一定の間隔で響き渡っていた。

「見てください、不思議なものがありますよ」

 一初が指し示した壁の場所には、なにやら緑色の円盤のようなものが埋め込まれている。その付近の歯車だけは、円盤を避けるようにしてアーチ状に配置されていた。

「ここは一体、なんのために用意された部屋なんでしょうか……」

 狭い空間にあるのは、歯車の壁、足踏みするような不気味な音、それと緑色の円盤だけ。

 これには、さすがの守も、眉をひそめてただ呆然と立ち尽くすのみであった。

 その後、ダイニングへ移動した一同は、各々適当に食事を済ませることにした。思考力や理性を鈍らせるため空腹は避けるべきだという、一初の判断によるものだった。

 俺が冷蔵庫の中から選んだメニューは、サンドイッチと野菜ジュース。大して食欲もなかったので、これくらいの量で十分に満足することができた。

 味は悪くない。だが、旨そうに食事する者は、誰一人としていなかった。

「鳥の皮食べる? 太っちゃうから嫌なのよ」

 チキンソテーを食べるカベイラが、隣の明菜にフォークで鳥の皮を差し出す。かえでの食事を手伝うのに忙しそうな明菜は、渋々それを受け取る。

 この場においても美しさを損なわない女性の強靭さに、モテない平凡な男子大学生である俺は、思わず惚れ惚れしてしまう。

「食事中悪い。改めて聞きたいんだが……」

 すると守が、落ち着いた口調で、皆に向けて発言をした。

「どんなに些細でも構わない。これまでのことに関して、なにか気づいたことがある人はいるか?」

「時計がない。あと、鏡もな」

 守の問いかけに、カガチが即答する。

「私もそれ思ってた」

 明菜に続き、他の者も頷いてみせる。

 そう、この『家』には、時計が置かれていないのだ。不安を煽るためか、あるいは昼夜の境界を曖昧にして生活リズムを狂わすためか。その理由は定かではないが。

「時計について、わたしなりの仮説を、すこし聞いてくれないか」

 そう言うと守は、身を乗り出してグルっと皆を見回した。真剣そのものな表情に、誰もが食事の手を止め、傾聴の体勢をつくった。

「なぜこの『家』とやらに、時計が一つも見当たらないのか。それは……この『家』自体が、一種の巨大な時計の役割を果たしているからではないだろうか」

 守の意味不明な発言に、キョトンと目を丸くする聴衆たち。

「もちろん、この考えに至った根拠はある。上の階で聞こえた奇妙な音だ。あの音が、規則的なリズムで鳴っていたのは、みんなも気づいていただろう」

 俺は、歯車に囲まれた部屋で聞こえた、巨人の足踏みのような音が、嫌でも脳裏に思い起こされた。

「どれくらいの間隔で音が鳴るのか、念のため、あの場で正確な時間を計ってみたんだ」

「でも、時計がないのにどうやって?」

 一初の質問に、守は難なく答える。

「心拍数を基に調べたんだ。成人男性の平均心拍数は一分間でおおよそ六十回から七十回と言われている。部屋の音と脈の打ち始めが一致する瞬間を待って、脈が七十回打ち終わるまでに鳴った音の回数をかぞえてみたところ、ちょうど六十五回だった。つまり、音の回数から七十を割ると、あの音はおおよそゼロコンマ九十三秒の間隔で鳴っていたということがわかった」

 淀みなく説明される計算に、俺は必死に頭を働かせる。

「つまり、誤差を除けば、あの音は、ほとんど一秒間隔で鳴り続けていたんだよ。そんなことが出来る道具は、他に二つとない。時計の秒針だ」

「たしかに、守さんの推理は正しいのかもしれない。でも、ここには、肝心の文字盤が、どこにも見当たりません」

「おそらく文字盤は『家』の外側にあるんだろう。つまり、ここは巨大な時計台の内部で、あの部屋の歯車はすべて、時計を動かすための装置だったというわけだ」

 巨大な時計台……。あまりに突飛な推理に、誰もが反論の余地を失っていた。

「時計台といえば、日本では札幌市にあるものが有名だな。まだ他にも根拠はある。水だ。古来より、陽のない夜に時刻を確認するために日時計の代わりとして、水位で時間を測る水時計というものが発明されていた。中国では、漏刻なんて呼ばれたりするものだ。時間の経過を知らせる鐘の音に合わせて、『家』の水位が変化する。この『家』の正体が時計台であることを暗示するかのような、実にわざとらしいからくり仕掛けだと思わないか?」

「でもさ、別に時計の中に時計があったって、いいんじゃないの?」

 水を打ったような静寂を、カベイラの一声が破った。守は、痛いところを突かれたというように苦笑して、続けた。

「鋭い指摘だな。あくまで今のは、わたしの仮説にすぎない。時間感覚を狂わせた方が都合がいいのか。あるいは、時計に意識を向けて欲しいという遠回しなメッセージなのか。本当のところは、わたしにもわからない。だがな、これだけは断言できる。奴は、これほどまでに手の込んだ施設を用意したんだ。ここにあるモノは必ず、なにかしらの意味がある。そしておそらく、ここに来た者が自然、抱く疑問は、余すことなく『家』に隠された大掛かりな仕掛けを解くためのヒントに繋がっている。そう考えると、奴の説明も辻褄が合うんだよ」

「……大掛かりな仕掛けだって?」

 カガチが頭を傾けて興味深そうに聞き返す。

「そう。かなり最初の段階から、わたしはこれを疑っていた。奴の言葉を覚えているか。『表へ出ることができるのは』。妙な言い回しだと思わないか? どうして『外』という言葉を使わず『表』と表現した? 『水没したフロアは、すべての照明が消灯されるから、視界の確保には十分、注意するように』。水没したフロアへは、エレベーターで降りることができないはずだ。ではなぜ奴は、わざわざ水没したフロアが消灯されることを説明したんだ?」

 ガーン……ガーン……ガーン……ガーン。

 なんの前触れもなく、聞き覚えのある鐘のメロディが、部屋に響き渡った。

 一回目の時よりも、明らかに音量が増している。加えて、鐘の爆音は、なぜだか横の方向から聞こえてきたような気がした。

「二回目の鐘ですね。つまり、一階は完全に浸水してしまった……」

「ああ、おそらくな」

 皆の顔が引き攣っていくのがわかった。奴の話を信じるならば、八回目の鐘が鳴り終える頃には、三階までのフロアが完全に水没してしまっているのだ。歯車だらけの狭い空間に避難したところで、命がそう長くはもたないことくらい、想像に難しくなかった。

 パチン! すると守が、魔除けをするみたいに手を叩いた。

「長々と話して悪かった。そろそろお開きにしよう。鐘の音に勝るほど、かえでくんを退屈させてしまったみたいだしな」

 かえでは、明菜の膝の上に座ったまま、グウグウといびきをかいて眠りこけていた。

 そうして一同は、それ以降、特に会話を交わすこともなく、各々のペースで部屋を後にするのであった。

 ダイニングには、カガチ、一初、守、俺の四人が残っていた。

 そろそろ俺も、部屋に戻ろうか。鉛のように重たくなった体を持ち上げ、フラフラと席を立つ。

「なんだかボクも眠くなってきました」

 そう漏らした一初が椅子を引いたところで、カガチが、冷蔵庫から取り出した二本の缶ビールを揺すってみせた。

「なあ、ちょっとだけ付き合ってくんねえか。一人で飲むには、あまりに陰気な場所だからな」

「……ボクでよければ、すこしだけ」

 一初は、誘いを断れない質らしかった。

「よし決まりだ。お二人も、どうです?」

 逡巡した後、俺は丁重に断った。今は、体を休めたい気分だった。守も同様に、誘いを断った。部屋で食べるためか、守はおにぎりを二個、手に持っていた。

「また今度、機会があれば一緒に飲みましょう」

 社交辞令などではなく、俺は本心で、そう言った。

「次の機会は、全員で外に出れた時ですかね」

 一初の言葉に、四人はふっと顔を綻ばせた。

「おやすみ。明日のためにも、しっかり睡眠はとるんだぞ」

 ペコリと頭を下げる一初。カガチは、泡の溢れた缶ビールを片手で持ち上げ挨拶した。

「おやすみなさい。また明日」

 俺はそう言い残して、二階を後にした。

 エレベーターを降りて、すぐに守と別れると、俺は『3』の数字が描かれたドアを開けた。

 試しにゴロンとベッドに寝ころんでみる。程よい反発のスプリングに、シーツも清潔だ。悪くない寝心地であった。

 部屋は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。

 カガチと一初はまだ夜宴の最中なのだろうか。右隣の部屋にいるはずのカベイラは、すでに就寝してしまったのかもしれない。

 一体だれが、なんのために、こんな場所を用意したのだろうか。

 ここで殺し合いをしてもらいます。正体不明の声は、たしかにそう言い放った。

 多少性格に難がある者がいるとはいえ、皆それなりに、まともな人間であったように思える。果たして、そんなに都合よく、殺し合いなどが起こりうるのだろうか……。

 そんな暗澹たる気持ちを抱えたまま、俺の意識は、睡魔に絡み取られていった。

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