5

「君にだから言えることだが」

 俺の耳元にグッと顔を近づけるようにして、守はささやく。

「隠し事を抱え込んでおくのは、止したほうがいい。秘密にすることを決めた時点で、周囲の人間を信じないと決め込んだのと同義になるだろう。案外、思考は容易に他人へ伝播するものだ。些細な隠し事が、やがて疑心暗鬼の種となり、気づいた時には他人の心の中で芽を咲かせている。そうなってしまえば、もう誰にも止められやしない。下で奴の話を聞かされだろう? 身辺に関する情報を極端に遮断されたうえで、殺人を教唆されたんだ。洗脳に監禁を利用するのと原理は同じで、その効果は計り知れない。わたしたちはあの時すでに、殺意の土壌を耕されてしまったんだよ。断言できる。凪の状態を維持する以外に、皆で生きて助かる道はない」

 勿論、守の言っていることはわかる。しかし……。

「すでに隠し事をしたり噓をついた人物がいるかもしれない。そう思ったんだろう?」

 図星を突かれて、俺は一瞬、呼吸が浅くなる。

「だからこそ、こうして今のうちに、心底信じ合うことのできる仲間を見つけておくのが肝要なんだよ。手遅れになる前に、できるだけ早い段階でな」

 守の瞳は、濁りのない透き通った色をしていた。

 この不確かな状況下でも、彼ならば、心から信用することができる。俺はそう、深く胸に刻み込んだ。

「でも、どうして俺に言ってくれたんですか?」

 こんなに影の薄い、俺に。そこまで口に出すのは、さすがに憚れた。

「たしか大学生だと言っていたよな?」

「はい」

「こんなに素直な大学生が、人を殺せるとは、わたしには到底思えない。だろう?」

 そう言い切る守の笑顔が、春風のように温かく、俺の怯えた心を慰めてくれた。

 他方の部屋は、だだっ広いウォークインクローゼットらしかった。

 計八本の白いロープが壁に張り巡らされている。ロープには、八人が今着ているものとまったく同じ服が、八着ずつ等間隔に整列され吊るされていた。

 やはり守の不吉な考えが的中していたのだろうか。ドアノブの下を確認してみたが、鍵穴らしきものは見当たらなかった。

 手前から明菜の服、カガチの服と続いて、三番目のロープに俺の服が吊るされていた。赤と黒のチェック柄のシャツに、着古したジーンズ。ここまで用意が周到であると、主催側の悪意ある執念を、嫌でも感じ取らずにはいられなかった。

 そうして俺たちは、特段これといったトラブルもなく、平穏に二階の探索を終えたのだった。

「忘れかけていましたが、ここもいずれ水没してしまうんでしょうかね」

 軽い口調で恐ろしいことを呟く一初。エレベーターの周囲に集まった皆が一様に顔をしかめる。

 するとグレンが、冷蔵庫から抜き取ったらしいウイスキーの小瓶を傾けながら、エレベーターの上矢印ボタンを乱雑に押下した。

「飲み過ぎは禁物ですよ、グレンさん」

「そこのガキだって飲んでるじゃねえか」

 気を紛らわすために手渡したのだろう。かえでは、ストローの刺さった紙パックのオレンジジュースを無心に啜っていた。

「だって……明菜姉ちゃんから貰ったんだもん」

「いいの、いいの。彼の言うことなんて気にしないで」

 一切動じない明菜の姿を見て、かえでは安心したようにジュースを飲み干した。

「ねえねえ、明菜姉ちゃん」

「ん?」

「もう寝たい。電気消していい?」

「電気?」

 かえでは、エレベーターのすぐ横の位置を、まっすぐ指さして見せた。目を凝らすと、かえでの指し示した壁の一部に、なにやら小さな突起のようなものがあるではないか。

「これ、もしかしたら照明のスイッチじゃないですか?」

 明菜の言葉を合図に、全員が彼女のもとへ集まる。よく観察してみると、壁の小さな突起は、たしかに照明スイッチらしかった。壁と同化するように、下部の開いた蓋が被せられており、ゆえに身長の低いかえでだけが、スイッチを直接、目視することができたのだ。

「ほんとうですね。よく見つけたねえ、かえでくん。お手柄だよ」

 一初の称賛に、かえでは喜ぶ素振りの一つも見せず、明菜の背後に隠れてしまう。

「試しに一回、押してみましょうか」

 反対の意見がないことを確認すると、一初はスイッチを押した。

 カチッと乾いた音が鳴ると、あたりは暗闇に包まれた。消灯するのは、中央の部屋に限られているらしい。両側のドアの隙間からわずかに漏れ出る白い光と、暖炉の炎のおかげで、なんとか視界を確保することができた。

 カチッ。闇をしりぞける人工的な光に眼が痛んで、思わず俺は目を瞬かせる。

「他にスイッチがあるか、見てくる」

 守は駆け足で隣の二部屋を確認すると、首を横に振りながら戻ってきた。

「変なつくりの家ですね。どうせなら、全部の部屋にスイッチがあればよかったのに」

 ごもっともである。一体なぜ、この部屋の照明だけ、点灯と消灯を切り替えることができるのだろうか。

「待て!」

 とつぜん守の切迫した声が部屋に響き渡る。見ると、いつの間にかエレベーターに乗り込んでいたグレンが、操作盤のボタンを押していた。

 閉じゆくエレベーターの扉を、すかさず守が手で押し返す。安全装置が働いて、銀の扉が怖気づくように跳ね返った。

「一人で行動しようとするな。お前だけが危険な目に遭うかもしれないんだぞ」

「いちいちうっせえんだよ、おっさん」

「なんとでも呼べ」

「おっさん、そこ立ってると、扉にプレスされちまうぜ」

 静かに睨み合うグレンと守。剣吞な雰囲気を払拭すべく、一初が二人の間に割って入った。

「みなさんも彼に続きましょう。こうしている間にも、浸水のタイムリミットは刻々と迫って来ています。一通り安全確認を終えれば、あとは自由に行動して構いませんから。仲良くいきましょ、仲良く」

 二人は、深く息を吐くと、同時に一歩、退いた。

 そうして、なんとか一触即発の状態を回避した俺たちは、『Ⅲ』のフロアーへ移動するのであった。

 正八角形状に折れ曲がった奇妙な廊下には、案の定、八つの部屋があった。

 ベージュ色のスチール製のプレスドア。ドアには、高架下の落書きのような具合で、黒のスプレーで数字が大きく描かれている。エレベーターの反対側に位置するドアには、『1』の数字。順に左回りに数字は進んでいき、『8』の数字のドアで、廊下をグルっと一周することになる。

 そして、肝心の部屋はというと、やはりアクリルキーホルダーの番号札と部屋の振り分けが対応しているようで、これまた狂気的なほどに凝った内装をしていた。

「随分と質素な部屋ですね」

「いいや、俺の好みをよく理解してるよ、まったく」

 『1』の数字の部屋から巡回することに決めた俺たちは、『2』の部屋、つまりカガチに割り当てられた部屋の前に立っていた。

 まず目に入るのは、背の低いガラスの丸テーブル。そのすぐ奥、薄茶けた部屋の壁際には、ステンレス製のテーブルとパイプ椅子がある。テーブルの上には、古めかしいタイプライターがぽつねんと置かれていた。すぐ上の壁には、窓から見える海外のストリートめいた交通量の多い風景の絵まで貼られていた。

「明菜さんの部屋とは、まったく違う雰囲気ですよね」

 一初の言う通りで、直前に見た明菜の部屋は、ピンクの壁紙に囲まれ、メイク用品や加湿器、アロマディフューザーに楽屋ミラーの机まで、彼女好みなありとあらゆる品物が揃えられていたのだ。生まれて初めて女性の部屋を覗き見した気分になって一人高揚したことは、胸に秘めておいたが。

「うん。なんだか別の部屋みたい。他は一緒なのに」

 入ってすぐの右手には、ユニットバスに繋がるドアがあり、少し進んで部屋の隅に、シンプルなシングルベッドが置かれている。玄関のプレスドアの内側には、郵便ポストが設けられており、ユニットバスの洗面台の鏡は、なぜだか丁寧に取り外されている。

 どうやら各部屋の基本的な構造には、違いがないようであった。

「さて、カガチさんの部屋はこれくらいにしておいて、次の部屋へ移りましょうか。次は三番だから、ええと……」

「多分、俺の部屋です」

「ああ、そうでした。ハットリさんの部屋でしたね」

 一初を先頭に、俺たちはモルタル仕上げの壁と床に囲まれた荒涼とした廊下を進んでいく。ピッタリ百三十五度に折れ曲がった角の先に、次のドアは待ち構えていた。

 俺は、ズボンのポケットからアクリルキーホルダーを取り出し、目の前のドアに描かれた数字と番号札を見比べる。『3』。この数字にも、なにか意味があるのだろうか。今更になって、そんな素朴な疑問がふと頭をよぎった。

「じゃあ、開けてみます」

 ドアノブを捻ると、鍵の撤去されたプレスドアは、容易に奥へ押し込まれていった。

 ユニットバスの位置や部屋の広さに相違はなかった。だが、レンガ調の壁紙に囲まれた部屋には、背の高い観葉植物と大型テレビ、手頃なサイズの座布団、それから鉢植えの多肉植物を載せた金網柵が、丁寧に置かれていた。

 的確に俺の嗜好を突いたインテリアの数々に、嫌な寒気を覚えずにはいられなかった。

「なんともハットリさんらしい、男子の平和な部屋って感じですね」

 俺のことを想って、一初は気の利いた感想を述べてくれたのだろうが、俺には『女気の一つもない凡庸な部屋だ』と聞こえてならなかった。実際、自分でもそう評価を下しているので、反論の余地はないのだが。

 俺は慎重に部屋へ入った。残りの七人は、玄関から中の様子を見るにとどめると、事前に取り決めてあった。

 ……観葉植物の葉が、すべて抜き取られている。

 それだけではない。植物育成ライトに照らされた多肉植物の数々も、表面が燃え上がるように赤く変色して、そのすべてが紅葉しているのだ。

 ここで、俺はふと、下の階にあったスズランの鉢植えの奇妙な姿を思い出した。そういえば、一階の苔の生えた岩も黒く塗り替えられていたではないか。

 グルっと部屋を見回したところで、俺は息をのんだ。

 間違いない。この『家』は、徹底的に緑色が排除されているのだ。

 世にも奇妙なこの気づきを包み隠さず皆へ伝えようと玄関へ向かったところで、なにやら守とカベイラが激しく言い争う声が聞こえてきた。

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