第45話 あの日掴めなかった手を
「一か月も経ったのに、桜さんはまだ私のこと好きでいてくれてるのかな?」
「きっと大丈夫だよ。千鶴は忘れられてないんでしょ?」
「……そうだけど。でも私たちはほんの少しの間しか一緒にいなかったんだよ?」
目の前ではイルカがプールから飛び出して、輪をくぐりぬけている。そのたび歓声があがっていた。
一か月は思ったよりも長い。私と桜さんが一緒に過ごしていたのは一週間にも満たない短い期間だ。その何倍もの間、私と桜さんは顔を合わせていない。
やっぱりなんだか怖い。もしも桜さんが私のことを忘れていたらどうしよう。私を迷惑に思っていたらどうしよう。そんな風に考えると、会うのが怖くなる。
大切な人なのだ。だから拒まれたら私は……。
うつむいていると、姉さんは笑顔で私の頭を撫でてくれた。
「人と人との結びつきって、一緒にいた時間じゃ測れないと思うなぁ。だってそうでしょ? 何十年一緒にいても仲良くなれない人だっているだろうし、数日一緒にいただけで誰よりも強い結びつきができる人もいる」
私はうつむいて、豊岡さんのことを思い出していた。豊岡さんには申し訳ないことをしたなと思う。けれど、やっぱり私が好きなのは桜さんなのだ。
「だからね、大切なのは思いなんだよ。桜さんはほんの一か月で、大切な大切な数日間を忘れてしまうような人なの?」
私は姉さんの言葉に過去を思い出す。私と桜さんが出会ったのは、暗い谷底に渡された橋の上だった。最初は変な格好をした人だなって感想しかなかったけれど、直面した悲惨な運命を知って、どうにかして救ってあげたいと思って。
最初はただ桜さんのことを救おうとしただけだったのに、いつの間にか気付けば私の方が救われていた。桜さんは私のトラウマも全て受け入れてくれたのだ。そして最後には私の幸せのために、お母さんの命を諦めてくれた。
そんな人が、私を忘れるとは思えない。
「……きっと桜さんは今も私のこと、考えてると思う」
「でしょ?」
姉さんはまぶしく微笑んだ。
「だったら早く会いに行ってあげなよ」
「……うん」
イルカショーが終わると、私と姉さんはすぐに帰路についた。日が傾いて空も街もオレンジ色に染まっている。
「これから桜さんに会いに行くの? 場所、分かるの?」
「住んでる場所は知らないんだけど、あてはあるんだ」
「そっか。頑張るんだよ」
私は姉さんに手を振ってから別れた。アパートに帰ると、すぐに自転車に乗ってオレンジ色に染まった街をかける。桜さんと二人乗りしたのが懐かしい。でも思い出になんて絶対にしない。
また桜さんと一緒に毎日を過ごすのだ。そのために私は今、走っているのだ。「幸福」とか「不幸」とかそういうもののために走っているのではない。ただ、桜さんに会いたい。その気持ちが全てなのだ。
私は桜さんのお母さんのお墓まで自転車でやってきていた。夕焼けを浴びて、墓石が輝いていた。自転車を止めて墓場に入ると、そこには愛おしい人が、桜さんがいた。
一か月前と変わらないままの姿だった。目を閉じて手を合わせている。頭の中のぼやけた輪郭が明確になってゆく。桜さんとの記憶がよみがえってくる。色々な気持ちが、心の奥からあふれ出してくるようだった。
私は涙声で桜さんに声をかけた。
「桜さん」
「……千鶴さん?」
振り返った桜さんは、目を見開いていた。でも私が抱きつくと不安そうな声をあげる。
「だ、だめですよ。こんなことしたら、また……」
「私、桜さんとじゃないと嫌だよ……」
縋るように強く抱きしめると、桜さんは観念したのか私の頭を優しく撫でてくれた。
「……もう。本当にロリコンさんなんですから……」
顔をあげると、桜さんは泣きながら笑っていた。
「私、後悔してたんです。あの日、千鶴さんの手を取らなかったこと、ずっとずっと……。でもやっぱり怖くて。千鶴さんを不幸にしてしまうのが、怖くてっ……」
今度は私が桜さんの頭を撫でてあげる番だった。大粒の涙をこぼす桜さんが泣き止むまで、ぎゅっと抱きしめてあげる。
「でもこの一か月間でやっと、不幸なんかよりも怖いことがあるって分かったんです」
「私もだよ」
「私、もう千鶴さんから離れたくないですっ……」
桜さんは罪悪感に苦しんでいるようにみえた。表情は暗く、耐えがたい苦しみを感じさせる。私の気持ちまで暗くなってくる。でもこれでいいのだ。桜さんと同じ不幸なら、もう何も怖くない。
「謝らなくてもいいよ。私もだから。桜さん。幸せなことも不幸なことも、桜さんと一緒がいい。そうじゃないと、だめになっちゃったみたいなんだ。私」
「……千鶴さん」
「これからはずっと一緒にいてくれる?」
私は桜さんを抱きしめたまま、そうささやいた。桜さんはぎゅっと私を抱きしめて、つぶやく。
「……ずっと一緒です。だから今から伯母さんに会いに行きましょう!」
桜さんの元気な声に、私は目を見開いて驚く。桜さんの伯母さんは、今の桜さんの親代わりだ。そんな人に二人で一緒に会いに行く。それはもう、結婚の報告と同義なのでは……?
「ど、どうしようっ……。こ、こんな服装でいいのかなっ? どんな態度で話せば。受け入れてくれるのかな……?」
私が不安そうに眉をひそめていると、桜さんは涙をぬぐいながら、満面の笑みを浮かべた。
「どんな手段を使ってでも認めさせてみせます。もう千鶴さんのことは絶対に離しません。だから千鶴さんも、私のこと手放さないでくださいねっ?」
私も覚悟を決めなければならない。そのために、私は桜さんのお母さんのお墓の前で手を合わせ、目を閉じ、心の中でつげる。「娘さんを私にください。絶対に幸せにできるかは分かりません。でも死ぬまで一緒にいる自信ならあります」と。
それから目を開けて、桜さんをみつめた。
「絶対に手放さないよ」
桜さんは嬉しそうに私の手をぎゅっと握った。そのまま二人で自転車に戻った。
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