第44話 幸せを願うからこそ

 姉さんが女優業を始めてから、私たちが言葉を交わす機会は極端に少なくなった。姉さんは仕事に忙しくて、家に帰ってくるのも遅くて、休みの日だって仕事ばかりで。


 そんな毎日で、たまにみる姉さんはいつだって寂しそうな顔をしていた。テレビの向こう側ではキラキラした笑顔を浮かべているのに、私の前でだけはそうだったのだ。でも私が大学生になってからは、そもそも顔を合わせることすらほとんどなくなった。


 もしも姉さんの言葉が本当なら、いったい姉さんはどんな気持ちで、一人過ごしていたのだろう。私のことをずっと思っていたのに、私のことが大好きなのに、顔を合わせることすらできなくて、ただただ女優としての仮面をかぶる毎日で。


 私はもしかすると、あの日、姉さんに呪いをかけてしまったのかもしれない。


「一緒に不幸になろう」


 身も心も傷だらけになった幼い私はそれでもなお、姉さんの幸せを願ってその言葉を頑なに否定した。でもそのせいで、私はかえって姉さんを不幸にしてしまったのだ。姉さんは望まず女優になり、私のそばにいることを諦めた。


 私のことを、大切に思ってくれていたにもかかわらず。


 その代わりに手に入れたのは、望まぬ名誉とお金だった。姉さんは、そんなものでは満足できなかった。いつだって私のそばにいることを望んでいたのだから。望んでいたのは暴力も怒鳴り声もない、私との平穏な生活だったのだから。


 私は自らの手で、姉さんの願いを踏みにじってしまったのだ。


 確かに幸せを祈っていたはずなのに、ずっと間違えていた。あのとき、私は姉さんと一緒に不幸になることを選ぶべきだった。雨のように不幸が降り注ぐこの世界で、傘もささずに一緒に寄り添い合って笑うことを選ぶべきだった。


 でも私は……。


 信じられないほど胸が苦しくて、本当は一緒に不幸になってしまいたかったのに。頑張ったのに。なのに、……なんで?


 姉さんのことを思って、必死で必死で自分だけが一人ぼっちで不幸になることを受け入れたっていうのに。どうして?


 なんで姉さんまで不幸になってるの?


 頭が締め付けられるように痛い。激しい血流の音が聞こえてきて、じくじくと耳を痛めつけるようだった。めまいがして平衡感覚が乱れてくる。


 私は拳を握り締めながら、姉さんを睨みつけた。


「おかしいよ。なんで私なの? 私なんかのせいで不幸にならないでよ! 姉さんって幸せだよね? 女優になって成功したんだから、幸せに決まってるよね?」


 でも姉さんは頷いてくれなかった。それどころか涙を流しながら私を抱きしめた。


 言葉はなかった。けれどそれが全てだった。


〇 〇 〇 〇


 千鶴さんと別れてから、一か月が経ちました。私は伯母さんの家で穏やかな毎日を過ごしています。それでもお母さんの命を諦めてしまったという罪悪感は根強く、決して薄らいでなんてくれませんでした。


 やっぱり正解だったのだと思います。


 千鶴さんと一緒にいれば間違いなく、千鶴さんは不幸になっていたことでしょう。いつまで経っても過去に囚われ不幸であり続ける私と、そんな私を好いてくれる千鶴さん。お互いが不幸になるたび、またお互いが不幸になってしまう。


 そんな螺旋が延々と続いたに違いないのです。


 ですがそう思うたびに、私は千鶴さんの言葉を思い出してしまいます。


「私と一緒に不幸になろうよ」


 もしもあの時、千鶴さんの手を取っていたら、どうなっていたのでしょう。延々と続く螺旋の中で私たちは何を思ったのでしょう。もしかすると「幸福」に勝る「不幸」を二人でなら見いだせたのかもしれません。


 そんな幸せな未来を夢想してしまい、私は自嘲的な笑みを浮かべます。


 もはや、そんな未来はあり得ないのです。


 千鶴さんはきっと、私のことなんて忘れてしまっているはずなのですから。


〇 〇 〇 〇


 薄暗い水族館に水槽からの青いひかりが漏れ出している。


 私は目を閉じて真っ暗闇に身を沈めた。この一か月間、桜さんのことを忘れようとしていた。それが正しいのだと思い込もうとしていた。けれど姉さんは、私が桜さんと離れ離れになることを選んだ根拠を、真正面から否定してみせたのだ。


「ずっと一緒を願ってたよ。千鶴」

「……なんで」


 涙でくしゃくしゃになった自分の顔を、姉さんは無理やり笑顔に変える。


「でもそれが千鶴の願いだって思ってたから、頑張ったんだ」


 姉が女優として大成すること。


 私のことを捨てて、一人ぼっちで不幸になること。


 そんなの、私の願いなわけがない……!


 頬を涙が落ちていく。馬鹿げてる。なにが私の願いだ。なにが頑張っただ。私が願っていたのは姉さんの幸せだったのに、どうして姉さんは……。


 溢れ出した涙はもう止まらなかった。嗚咽が漏れてくるのも抑えきれなかった。私たちは間違えていたのだ。相手の幸せを願っていたはずだったのに、そのせいでお互いを苦しめてしまった。


「姉さんの馬鹿。大馬鹿! 私の馬鹿っ。私の願いは昔から変わらない。姉さんの幸せだよ……!」

「私も同じだよ」


 泣き崩れる私を姉さんは優しく抱きしめてくれた。優しく背中を撫でてくれる姉さんの温もりは、幼いころのままでなおさら涙が止まらなくなってしまう。


「……だからね千鶴。今度は絶対に間違えないで」


 その言葉に私は何度も何度も頷いた。

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