一か月後

第43話 姉さんの本心

 ただただ時間が過ぎてゆく。桜さんの姿かたちの記憶が薄れていく。


 私は毎日ベッドの中でうずくまっていた。けれどその習慣だっていつしか終わっていた。苦しむのに慣れてしまったのだ。


 一週間、二週間、三週間。


 月日が過ぎるにつれて、頭の中で結んだ像は輪郭を失う。桜さんの性格も、桜さんがどんな風に甘えてきたかも、桜さんとどんなキスをしたのかも、桜さんの全てがぼやけていく。苦しみの密度すらも薄まってゆく。


 私はただただ必死で耐えた。忘却への恐怖を必死で耐え忍んでいた。そうしているとやがては記憶を失うことへの辛さも和らいでゆき、ほのかな落胆と共に、気付けば一か月近く経っていた。


 外に出ることも苦しくなくなり、ベッドの中にうずくまることも忘れていた。夜が明けるのが恐ろしくなくなったし、むしろ太陽の光を歓迎するようになっていた。


 人は変わる。桜さんがいった通り、人は生まれ持って幸福へと転がっていくようにできているのだ。私も例外ではなかった。一歩ずつ、桜さんの存在しない幸せへと近づいていく。


 その事実が、寂しかった。


 そんなある日、姉さんから連絡が来た。


 水族館で姉妹デートをしないか、と。


 特に予定もなかったから、私はすぐにそれを承諾した。


 服装をどうしようか、とかちょっと楽しみだな、とか。


 そんな一か月前の私なら考えなかっただろうことを、考えてしまうのだ。


 もはや激しい自己嫌悪も私の中には残っていなかった。


 冷淡な感情のまま、鏡の前で良さげな服装を探る。


 私と桜さんはあっという間に仲良くなったし、お互いを心から分かりあえたつもりでいた。一か月前は、もう離れられる気なんてしてなかった。


 でも悲しむのにも体力は必要だから、それがなくなれば後は「幸福」になるだけ。そのことに穏やかな悲しみを覚えながら、私は服装を決めた。


 日焼け止めは塗ったし、ハンカチも持ったし、お財布も持った。


 アパートを出て、待ち合わせの場所に向かう。夏だから薄着の人が多い。桜さんの薄着も見たかったな、なんて思うけれど、もう桜さんはただの思い出でしかない。


「千鶴! 待った?」

「今来たところだから大丈夫」


 相変わらず姉さんはキラキラした笑顔だ。流石に暑いからか、今回は帽子とサングラスだけで変装している。マスクは付けていない。


「それにしてもまさか千鶴がお姉ちゃんとデートしてくれるなんて……」


 姉さんは瞳をうるうるさせていた。きっと姉さんのことだから演技ではないのだろう。本気で私と遊びに行けることを嬉しく思っているのだ。


 私たちは手を繋いで、水族館に向かった。水族館は薄暗くて幻想的な雰囲気を纏っている。たくさんの小さな水槽の奥には鮮やかな熱帯魚が泳いでいた。


 それをみつめていると不意に姉さんが口を開いた。


「でも私と姉妹デートなんかしたら、千鶴の彼女嫉妬したりしない?」

「……桜さんとはもう別れたよ」


 私がそう告げると、姉さんは残念そうな顔をした。


「どうして? すっごく仲良かったんでしょ?」

「お互いの幸せのために別れたんだよ」


 私がぼそりと告げると、姉さんは「そっか」と肩を落とした。


「お互いの幸せかぁ。それって一見綺麗にみえるけれど、ただ相手を幸せにする自信がなかったってことだよね」


 私はちらりと姉さんに視線を向ける。姉さんは不満そうな表情をしていた。どうやら、私の決断が気にくわないらしい。なにも私たちのことなんて、知らない癖に。


「違う言い方をするのなら、相手を不幸にする責任を背負いたくなかったから、とも言い表せるかな?」

「……そうかもね」


 私はあの日、桜さんと一緒に不幸になる覚悟をしていた。でも桜さんは一緒にいることよりも、私が幸せであることを優先した。だから私も桜さんの幸せを願うことにした。


 かつての私と姉さんもそうだった。姉さんを犠牲にしたくない私と、私のためなら犠牲になるつもりだった姉さん。私は自分のせいで姉さんに不幸になってもらいたくなかった。桜さんもきっと同じ気持ちだったのだろう。


 大切な人には不幸になってもらいたくない。


 その気持ちが痛いほどわかるから、私は桜さんの提案を拒めなかったのだ。


「姉さんだって分かるでしょ? 私と同じなんだから」

「ん?」

「あの日、姉さんは私に提案した。二人で不幸になろうって。でも結局姉さんだって私の元を離れて、女優として大成した。姉さんは、私と一緒に不幸になるのを諦めたんだよ。私が桜さん相手にそうしたように」


 結局姉さんも私と同じなのだと思う。大切な人に幸せを祈られて、それでも「一緒に不幸になろう」なんてわがままを貫き通せるほうが異常なのだ。


 姉さんはうつむいて、肩をすくめた。そして水槽をぼうっとみつめながら、口を開く。


「……私さ、今でも後悔してるよ?」

「えっ?」


 姉さんは薄暗い空間の中、目に涙を浮かべていた。


「もしも千鶴と一緒に不幸になれてたら、今よりもずっと仲良くいられたのかなって。ずっとそばにいられたのかなって。今だって、私の中で一番大切なのは、千鶴のそばにいることだからさ」


 私を見捨てて姉さんが得たものは多い。大女優としての名声やお金。それらはきっと私と一緒に不幸になれば得られなかった。私のそばにいるのが一番大切だなんて、信じられない。


 だから私は冷たく吐き捨てた。


「……感傷に浸るのもいい加減にしなよ」


 だけど姉さんは真剣な表情で声を荒らげた。


「違う。本当に思ってるんだ。私はずっと千鶴と二人で暮らすことを夢見てた。名声もお金もいらない。慎ましくてもいいから、ずっと千鶴と仲良くいたかったんだよ。スケジュールに追われるし、プライベートでも変装しないとだし、千鶴とほとんど話すこともできない。そんな毎日、求めてなかったんだよ」


 姉さんはぼろぼろと涙をこぼした。演技だ。そう思いたかった。けれど私の心は気付いていたのだ。それが嘘ではないということに。今日にいたるまでずっと隠していた本心だということに。

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