風化していく思いと本当の気持ち
断ち切られた運命
第40話 喪失
幼い日の私は熱湯をかけられたあと、骨折をするまで両親に殴られた。姉さんはボロ雑巾みたいになった私の前で、涙を流しながら必死で受話器に叫んでいた。
妹を助けてください、と。
姉さんのおかげで私たちは両親から逃げることができたけれど、それからも私は目に触れるもの全てを恐れていた。あの凄まじい暴力の日から、学校の皆にすら恐怖心を抱いて、引きこもり同然になってしまっていたのだ。
私は姉さんすらも拒絶した。
でも姉さんはいつだって私のそばにいてくれた。
姉さんはずっと後悔していたのだろう。
私のせいで。
私が暴力を振るわれてしまったせいで。
そのことが、私はどうしようもなく許せなかった。
姉さんは女優になる人なのだ。幸せになるべき人なのだ。私なんかのそばにいるべきじゃない。幼いながらに分かっていたのだ。自分が姉さんの足を引っ張っているということを。でも姉さんは笑顔で私の言葉を否定した。
「一緒に不幸になろう?」と笑いながら。
あの頃の私は姉さんの言葉の意味が理解できなかった。でも今なら分かる。だって今の私と桜さんの関係は、昔の姉さんと私の関係そのものだから。
姉さんのために犠牲になった私と、それに罪悪感を覚える姉さん。そして私のために犠牲になった桜さんと、そのことに罪悪感を覚える私。そんな状況で今、私が桜さんのためにやろうとしていたことは、かつての私が否定した行動そのものだった。
好きな人が自分を犠牲にする。そんなの、される側からすればたまったものじゃない。分かっていたはずなのに、私は致命的な形で間違えてしまったのだ。
だから桜さんは。
「千鶴さん。私、千鶴さんの前からいなくなります」
涙色の笑顔で言い放ったのだろう。
「いなくなる……? なんで。やだよ。嫌だ!」
私の叫び声は虚しく暗闇に吸い込まれた。桜さんは寂しそうに微笑んでつげる。
「千鶴さんには豊岡さんがいるじゃないですか。別に私である必要はないと思うんです。私に巻き込まれて不幸でいる必要はないんです」
「そんなこと言わないで! 桜さんじゃないとだめだよ……!」
私は涙を流しながら、桜さんを抱きしめた。
けれど桜さんは徹底的に感情を抑え込んだ声でつげる。
「千鶴さんのこと大好きですから、別れるのは辛いです。でも私だってみんなにみえるようになったわけですから、きっといつか忘れられますよ。お互いに」
なんでそんなに平気な態度でいられるの? 忘れたくなんてない。忘れられたくもない。きっと桜さんだって同じ気持ちのはずなのに、なんで……?
「千鶴さん。私たちは近づきすぎたんですよ。だからお互いのことを優先しすぎて、それで却ってお互いを傷付けてしまう。千鶴さんは私の運命の人です。それは否定しません。でもだからこそ、別れないとなんです。お互いのために」
私はぎゅっと桜さんを抱きしめる。どんな言葉だって今の桜さんには無意味なのだろう。私が一番わかってる。昔の私だって、姉さんの言葉の全てを拒絶した。
だからこそ姉さんは私の元を離れて女優として大成したし、幸せにもなれたのだ。きっと桜さんの言葉が正しいのだろう。私が幸せになるためには、私たちは別れなければならないのだろう。幸せでない私と一緒にいても、桜さんはなおさら不幸になってしまうだけなのだろう。
それでも、私は……。
心がきしむ。なにか言葉をはきださないと、潰れて壊れてしまいそうだった。
「さく……」
けれど私が言葉を発しようとしたその瞬間、桜さんは私の口をふさいだ。
涙を流しながら、キスをしたのだ。
「言わないでください。これ以上、私を困らせないでくださいっ……」
その歪んだ表情からは、桜さん自身も嫌というほど苦しんでいるのが伝わってきた。そのせいで、私は何も言えなくなってしまう。
私たちは無言でアパートにたどり着き、玄関の扉を開いた。中に入ると桜さんは私に合鍵を返した。肩を落としながら、それを受け取る。
「……もしも私たちが不幸とか孤独とかと無縁だったら、上手く行ったのかな」
「きっと上手く行きませんよ。不幸で孤独だからこそです」
桜さんは小さく微笑んでいる。確かにそうかもしれないなと思う。私たちが出会えたのはお互いが不幸を抱えていたおかげだった。そうでなければ、顔を合わせることすらなかったのかもしれない。
不幸。それこそが私たちを結びつける「運命」だったのだろう。
でも桜さんは私たちの共通項である不幸を「運命」を否定した。
私たちはもう一度お風呂に入ってから寝室へと向かう。きっと今日が最後になるのだろう。ベッドの中で見つめ合い、唇を重ね合わせた。
翌朝、私は裸で目覚めた。もう隣に桜さんはいなかった。
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