第38話 自己犠牲

 リビングで私は桜さんが涙を流した理由を考えていた。本心ではえっちをしたくなかったのか、やっぱりお母さんを諦めたことが原因なのか。


「千鶴さん。さっきはごめんなさい……」


 体を洗い終わってリビングにやって来た桜さんは、もう泣いていなかった。申し訳なさそうな声で、私を後ろから抱きしめている。私は振り向いてよしよしと頭を撫でてあげた。


「大丈夫だよ。大丈夫。でももしも桜さんが何かに苦しんでるのなら、私にも教えて欲しい。私、桜さんが不幸なのに幸せになんてなれないよ」


 桜さんはうつむいてしまう。申し訳なさそうに肩を落としていた。


「話したくないのなら話さなくてもいいよ。でも辛いのなら私を頼って欲しい」


 私が微笑むと、桜さんは顔をあげてぽろぽろと涙を流した。


「私、幸せになんてなりたくないんです」

「……どうして?」

「お母さんを諦めたのに、私だけ幸せになんてなれないです。だってそうじゃないですか? 私はお母さんを裏切ったんです。これまでずっと私を大切にしてくれたお母さんを、私は……」


 桜さんは震えながら嗚咽を漏らした。私の両親はひどい人たちだったから、桜さんの気持ちを百パーセントは理解できない。だけれど……。


「桜さんは私のために私を選んでくれたんでしょ? それなら悪いのは私だよ」

「違うんです。悪いのは私です……」


 桜さんは小さく縮こまって、私に抱き着いてきた。その悲壮な姿に、何も言えなくなってしまう。例え私のためだとしても、その決断をしたのは桜さんなのだ。きっと想像もできないほどの罪悪感に苛まれているのだろう。


 だからってその罪の意識を否定するわけにもいかない。罪の意識を感じるという事実。それに救われている側面だってあるはずなのだから。


 そんな状況で、私は桜さんのためになにができるだろう。


 抱きしめていると、いつの間にか桜さんは泣き疲れて眠ってしまったようだった。私はそっと小さな体をお姫様抱っこして、寝室に連れていく。そしてベッドの上に横たえた。


「……お母さん」


 夢の中ですらそうつぶやく桜さんを前にして、私は心臓を握りつぶされそうな気持ちになった。


 どんな手段を用いてでも、絶対に幸せにしてみせる。桜さんが私を幸せにしてくれたように、今度は私が桜さんを助ける番だ。そのためなら何だってしたい。


 すうすうと寝息を立てている桜さんの頭をひと撫でしてから、私は寝室を出ていく。玄関に向かって、外へ出る。月も出ていない暗い世界に街灯がぽつぽつと並んでいた。


 私は家々の明かりをたどるように、歩いていく。そしてごうごうと強い風の吹く、例の橋の上にたどり着く。桜さんが自殺した場所だ。


 自殺すれば魔法少女になれる。そして怪物を倒せば願いを叶えられる。


 もしも私が桜さんのお母さんを蘇らせれば、桜さんは喜んでくれるだろうか。分からない。でも桜さんの心を救う手立てはここにしかない。


 私は深い谷の底を見下ろす。真っ暗で何も見えない。これからすることを思うと、恐怖で足がすくむ。けれど、やらなければならないのだ。


 私に幸せを教えてくれた桜さんのために。


 周りに誰もいないのを確認してから、欄干を乗り越えようと足をかける。姉さんには本当に申し訳ない。私を一人にして幸せになった姉さんだけれど、本当はそんなに嫌いじゃなかった。だって、私のことを愛してくれていたから。

 

 だからもう二度と会話できなくなるのだと考えると、動けなくなってしまいそうになる。でも結局、頭の中に思い浮かぶのは、罪悪感に苦しむ桜さんの姿だった。


 もしかすると桜さんから罪悪感を無くす代わりに、今度は私が罪悪感を抱いてしまうだけなのかもしれない。それでも桜さんが笑ってくれるのなら。


 桜さんを救えるのなら。


 私は微笑みを浮かべ目を閉じる。そしてついに欄干を乗り越えて、暗闇に身を投げ出した。頭から真っ逆さまに落ちていく。風を切る音は永遠に続きそうだった。


 だけれど人生と同じでいつかは終わる。


 終わってしまえば、積み上げてきたものなんてあっけなく崩れ落ちてしまう。だから自分の人生の可能性を捨てるのなんて、辛くもなんともない。……辛くなんて、ない。


 けど私は死の間際の走馬灯に、幼いころの姉さんとの記憶をみてしまった。


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