幸福は罪ですか?
魔法少女は決断する
第32話 幸せになってしまった女子大学生
私はいつも朝の七時半に目覚めます。今日も千鶴さんの綺麗な、でもどこか幼さの残る寝顔をみつめてから、ベッドを出ます。ですがそこで、一つやるべきことを忘れていることに気付きます。
私はそっと千鶴さんに顔を近づけます。
そして誰にも内緒で千鶴さんの唇を奪うのです。これが最近の私の密かな楽しみです。ひとしきり千鶴さんの端整な寝顔を楽しんでから、今度こそはキッチンに向かって料理を始めます。
千鶴さんはいつも私の料理を喜んでくれます。なので今日もとても楽しみです。丹精込めて作った朝食を大切な人が楽しんでくれる。こんなに幸せなことはありません。
私はいつも一人でした。お母さんは仕事で朝早くに家を出て行ってしまうし、帰ってくるのも私が寝た後。学校にも友達はいなくて、いつだって一人でした。でもお母さんは休みの日になると私を遊びに連れて行ってくれます。
だからお母さんだけが私の心の支えだったのです。でもそんなお母さんは、とある休日、私と出かけた先で死んでしまいました。突っ込んできた車から私を庇ったのです。そうして私は生きる意味を失いました。
親戚によってお葬式が行われた後、私は伯母の家で暮らすことになっていました。ですが私はお葬式が終わったその日に橋から身を投げました。夜になれば底がみえなくなるほど深い谷です。
当然、生き残るはずもなく、お母さんを失った悲しみの中この世を去るはずでした。
なのに私は気付けば橋の上に立っていました。しかも奇妙な服装を身に纏っていたのです。魔法少女のような、ひらひらしたパステルカラーのドレスです。
どうにかして死のうと思いました。ですが橋から落ちるたび、死んだほうがましなくらいの激痛が走るだけだったので、結局は死ぬのを諦めてしまいました。死ぬのを諦めると、脳内に神様が現れました。声が聞こえたのではなく、脳に情報を直接流し込まれるような感じで、一方的な会話だけが行われました。
それから私は目の前に突然現れた化け物を倒すために、毎日毎日死んだほうがましなくらいの苦痛を受けることになります。それでも精神が壊れなかったのは、これを倒せばお母さんを蘇らせることができるからでした。
それでも不幸な私にはいつまで経ってもその化け物を倒すことは出来なくて、半年がたちました。そんなある日です。私はいつも通り化け物と戦って負けました。損傷が激しかったのか、意識を取り戻すのにいつもより時間がかかったようで、気付けば知らない女の人の家にいました。
私の最愛の人。千鶴さんの家です。
でも私は迷惑をかけるわけにはいかないと、千鶴さんに黙って家を出ました。ですが千鶴さんは呆れるほどのお人好しで、翌日の夜、私を心配して橋の上までやってきていたのです。本当にばかです。愛おしいくらいばかです。
そうして私は千鶴さんの家でまたお世話になりました。迷惑をかけたくなかったのですぐに出ていこうとしたのですが、千鶴さんはなんと私に恋をしたというのです。今となってはそれが嘘だということは知っているのですが、あの頃の私は連日の凄まじい苦痛ゆえに心を壊しかけていました。
だから、その優しい嘘を信じてしまったのです。
それから私たちは一緒に過ごしました。千鶴さんにも辛いこと、苦しいことがあったのだということを知って、それでもなお私に優しくしてくれるのだということに感動して、少しずつ千鶴さんのことを大切な人だと思うようになっていきます。
そして今では千鶴さんなしでは生きていけない体にされてしまいました。
私は卵焼きを作りながら考えます。いつか千鶴さんとえっちするのかな、とか。いつか千鶴さんと結婚して本当の家族になるのかな、とか。そういうことを考えるだけで本当に幸せな気持ちになれます。
もうそろそろ千鶴さんが起きてくる時間でしょうか。私はきっちりと朝食を作り終えて、リビングに運びます。そして椅子に座るとワクワクした気持ちでリビングの入り口をみつめます。
きっと今日もいつも通りの幸せな素晴らしい一日が始まるのでしょう。
扉が開きます。すると現れたのは私より少し身長が高い美人さん。千鶴さんです。眠そうな目をしているのがどこかアンニュイな感じでとても心惹かれます。
「おはようございます。千鶴さん!」
私は元気にあいさつをします。ですが千鶴さんはきょろきょろとリビングを見渡すだけで、返事をしてくれません。一体どうしたのでしょう?
「桜さん?」
どこか不安そうな声で、千鶴さんはつげます。視線はキッチンに向いていました。
「千鶴さん。私はここですよ」
笑顔でつげます。もしかするとまだ寝ぼけているのかもしれません。本当に千鶴さんは可愛い人です。
ですが千鶴さんは変わらず辺りをきょろきょろ見渡すだけでした。
「桜さん? 桜さん!」
明らかに取り乱した様子で千鶴さんは叫びます。
流石の私も、何かがおかしいと気付きました。
「……千鶴さん?」
近寄って目の前に立ちます。でも千鶴さんは慌てふためくだけで、私に気付いてくれませんでした。信じたくありませんでした。でも千鶴さんはこんな意地悪をする人じゃありません。
千鶴さんは、私がみえなくなっているのです。
心臓を握りつぶされるよりもずっと強い苦しみが、私に押し寄せます。
いえ、喜ぶべきことのはずなのです。あれだけ幸せを感じられなかった千鶴さんがようやく、幸せになれたのですから。なのに私の目からは涙が流れるばかりで。
「桜さん! 桜さん! どこ行ったの? 隠れてないで出てきて!」
そう叫ぶ千鶴さんの脇を抜けて、家を飛び出しました。扉が開く音に気付いたのか、桜さんが部屋から飛び出してきます。でも相変わらず、私のことはみえていないみたいでした。
私は涙をぬぐいながら階段を降りて、ゆくあてもなく住宅街を歩きます。
そして考え込みます。どうして千鶴さんはあんなにも狼狽しているようだったのに、不幸な表情をしていたのに、私のことがみえなかったのでしょうか。
悩んでいると、ある一つの考えに行きつきます。もしかすると千鶴さんが私を知覚できていたのは「幸福」を知らなかったからなのではないか、と。
私を知覚できる人は、ごくごくわずかです。通勤ラッシュの電車に魔法少女の姿で潜り込んでも、誰も私を知覚してくれないほどでした。みんな不幸そうな顔をしているにもかかわらず。
それを思い出せば、成り立ちそうな仮説はたった一つです。
「幸福と不幸の重みは等しくない……?」
ほんのわずかな幸福さえ胸に抱えていれば、人は生きていける。どれほど不幸な人生でも、素晴らしい幸福な過去があれば前へと進んで行ける。そういうものなのではないでしょうか。
もしも神様の定義する「不幸」が私の想像する通り、もう二度と前へと進めなくなるほどの、死んでしまうほどの特大の苦しみを指すというのなら……。
「もしかすると、このままだと私と千鶴さんはもう二度と会えない……?」
その考えに思い当った瞬間、涙が溢れ出してきます。ですが私はそれを拭いながら大丈夫だと自分に言い聞かせました。なぜなら、私は願いごとを一つだけ叶えることができるからです。その願い事を使って、私自身がみんなにみえるようにしてもらえばいいだけなのです。
でも、そうすれば私はお母さんを見捨てることになります。
ほんの数日を共にしただけな千鶴さんとの幸せと、十五年を共にしたお母さんの命。時の重みだけみればどちらを優先するべきかなんて、分かってます。ですが、私の本心はどうしようもなく馬鹿で、愚かで、醜悪で。
「……千鶴さんとまた話したいよ。抱きしめてもらいたいよ。キスだってしたいよ。えっちだってしたい。結婚だってしたい。お墓だって同じところに入りたいよっ……」
青空を見上げて、泣き崩れました。空には鳥が飛んでいます。木には蝉がやかましく鳴いています。学生が自転車に乗って走っていきます。この世界には命が溢れています。
なのにどうしてこんなに、命というものは貴重なのでしょうか? これほど貴重でなければ私はなんの罪悪感も感じずに千鶴さんを選べたはずなのに。笑いながら、お母さんを見捨てられたはずなのに。
「……ごめんなさい。お母さん」
どうしてこんなに苦しまなければならないのでしょう?
涙はいつまで経っても止まってくれませんでした。むしろ止めようとするほどに溢れ出してくるのです。苦しみだって、決して消えてくれません。誰かに私の苦しみを聞いて欲しい。私を苦しみから救ってほしい。そう、強く願ったときでした。
「桜ちゃん?」
聞きなれた声に呼び止められました。
振り返ると、そこには豊岡お姉さんがいました。
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