第30話 後回し

 唇を触れ合わせていると、桜さんの手が私のお腹を撫でていた。火傷痕のついた醜いお腹だ。私のこれまでの不幸の証だ。なのにそれを桜さんは愛おしそうに撫でてくれる。


「……頑張って生きてくれてありがとう。私と出会ってくれてありがとう。千鶴さんが頑張ってくれたから、私は千鶴さんと出会えたんです。千鶴さんにみつけてもらえたんです」


 桜さんは何か覚悟を決めるように、目を閉じた。


「……だから今度は私に恩を返させてください。私、お母さんのこと諦めます」

「だめ。そんなの絶対にダメだよっ!」


 私は涙ながらに桜さんを拒絶する。


「いいんですよ。これで。私、千鶴さんには幸せになってもらいたいですから」

「……私だって、桜さんのお母さんに死んだままでいて欲しくないよ。桜さんに幸せになってもらいたいんだよ」


 浴室がしんと静まり返る。波打つお湯が体にあたって砕ける音だけが聞こえていた。桜さんだって強く葛藤しているようだった。お母さんとの付き合いは長い。でも私とはまだ出会ってから一週間も経っていないのだ。


「大丈夫だよ。私は不幸でいることに慣れてる。桜さんのそばにいられればそれでいいんだよ。また幸せって気持ち、頑張って押し殺すから。もしもお母さんを蘇らせなければ、今度は桜さんこそ幸せになれなくなっちゃうでしょ?」


 私は真っすぐに桜さんをみつめてつげる。


「そんなの私は絶対に嫌だ」

「……だったら、私はどうすればいいんですか? 千鶴さんにも絶対に幸せになってもらいたいです」


 桜さんは不安そうにしていた。私もはっきりとした解決策は分からない。


 けれど分かることもある。今は桜さんには幸せでいて欲しい。嫌なことを考えないで欲しい。何を選ぶのか、そんなのは後回しで今は私との時間に幸せを感じて欲しいのだ。


 一度幸せになって桜さんが見えなくなったからって、それが永遠ってわけじゃない。桜さんが見えなくなれば、私は確実に不幸になるはずだ。そうすればまた桜さんに会える。


 でもそれが何度も繰り返されれば、やがては不幸に慣れてしまうかもしれない。桜さんに会えなくなってしまうかもしれない。けれど、今はまだその時のことは悩まなくたっていいはずだ。


「まだ考えなくていいと思う。私とたくさん幸せになろうよ」


 私が涙をぬぐいながら微笑むと、桜さんは考え込むようにうつむいてから、私を抱きしめた。桜さんは不安そうだけれど、私の提案を断れないみたいだった。


「……そう、ですね。まずはあの不幸の化け物を倒さないといけないわけですし」

「うん。だから今は考えなくていいんだよ」

「……幸せですね。千鶴さん」


 桜さんは私を見上げてほほ笑んだ。


 それがただの先送りだと分かっていても、やっぱり二人での時間は「幸せ」で。


 心から幸せな時間を桜さんと二人で過ごす。そんな今を崩したくはなかった。


 だから私は桜さんと微笑み合って、のんきに何度も唇を重ねた。そのたび、桜さんは私の火傷痕を愛おしそうに撫でてくれる。こんな「幸福」がいつまでも続くんじゃないかと錯覚するほどには、私たちは現実から目を背けていた。

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