第28話 恐怖に固まる
大学が終わった。空はオレンジ色に染まっていて、バイトまでそれほど時間がない。桜さんをアパートまで送り届けたいところだけれど、途中までしか無理そうだ。
私は大学の自転車置き場で桜さんに鍵を渡した。するとどうしてか桜さんは顔を真っ赤にしている。どうしたのだろう?
「ち、千鶴さん。こ、これって……」
「うん? 家の鍵だよ? 鍵は二つあるから一つあげるね」
すると桜さんはあわあわと慌てている様子だった。
「わ、私に鍵を渡すということは、それはもう、そういう、ことですよね?」
「どういうこと?」
「同棲っていうか、家族っていうか……。その……」
もごもごといい淀んでしまう桜さん。なにか言おうとしているみたいだったけれど結局恥ずかしそうに「なんでもないです」と小さくつぶやいいて、自転車の後ろに乗った。
自転車をこいでいると、今日はいつも以上に背中にほっぺをすりすりしてくる。可愛い。「えへへ」って可愛い笑い声が時々聞こえてくるし、なんだか心がぽかぽかしてくる。
でもバイトまで桜さんを連れていくわけにはいかない。仕事なのだからそこはきちんとしないとだ。私は途中の分かれ道で桜さんを下ろした。桜さんは寂しそうにしていたけれど「早く帰ってきてくださいね!」と笑顔で手を振っていた。
私も手を振ってから、自転車のペダルを踏む。
いつもなら家に帰っても誰もいないけれど、今日は違う。桜さんがいるのだ。そう考えるとバイトも頑張れそうだった。スーパーにつくとすぐに裏の更衣室で制服に着替える。私は気合を入れて、レジに向かった。
バイトが終わるころになると外はすっかり暗くなっていた。私は桜さんに早く会いたい一心で、夜の街を走った。おかげでいつもよりも五分早くアパートにたどり着いた。
階段を上がって、部屋の前に立つ。いつも通り鍵を開けて自分で入ろうかと思ったけれど、いつもなら使わないインターホンに目が向く。このボタンを押せばきっと桜さんはニコニコ笑顔で私を出迎えてくれるのだろう。
私はにやにやしながらボタンを押した。するとすぐに足音が聞こえてきて、扉が開く。そこには可愛い笑顔の桜さんがいた。私は玄関に入って扉を閉じる。
「おかえりなさい。千鶴さん」
「ただいま。桜さん」
そのやり取りだけで疲労が吹き飛んでいくようだった。桜さんは飛び切りの笑顔で私に抱き着いてきた。よしよしと背中を撫でてあげるとすりすりと頬ずりをしてくる。ここは天国ですか……?
でも自転車をこいでいただけあって、かなり汗をかいてしまっている。そんな状態で桜さんにすりすりされるのは、ちょっと複雑な気持ちだった。汗臭いとか思われてないだろうか。
「と、とりあえずお風呂入ろうかな」
「お風呂ならもう湧いてますよ。どうぞ入ってください」
「ありがとう」
私は一人、脱衣所に向かった。
壁に寄りかかって桜さんのことを考える。
すると「幸せだな」なんて思ってしまう。そんな事考えていいわけがないのに。だって私が幸せになれば桜さんはみえなくなってしまうのだ。私はぶんぶんと首を横に振って服を脱ぐ。
でも、今日一日のことを思いだしたら、やっぱり桜さんへの温かい気持ちが湧き出してくる。きっと、人を好きになることは一番の幸せへの近道なのだろう。だからこそ、だ。私は桜さんに恋をするわけにはいかない。
だけど確実に桜さんに惹かれてしまっている。
桜さんだって私にもっと好きになってもらいたいのだろう。だからに猛烈にアプローチをしてくる。心が動かないはずがないのだ。でもそれを心から受け入れて幸せになれば、桜さんとの約束を破ってしまうことになる。
ずっと一緒にいるという約束を。
だから私はじっと、鏡をみつめた。
相変わらず鏡に映るのは醜い私。お腹の火傷痕がひどい。こんなのをみれば桜さんだって私を嫌いになるかもしれない。私自身、こんなに醜い姿、そうそう見たいものではない。だからこそ、見つめていると気持ちが重く沈んで落ち着く。
大丈夫。大丈夫だ。恋なんてしないし、幸せになんて絶対にならない。
何度かそう言い聞かせてから、脱衣所から浴室に向かった。
そして湯船につかった。最近の私の毎日は世間一般からすれば幸せな毎日なのだろう。大切な人に出迎えてもらえて、大切な人のご飯を食べられて、大切な人に好きでいてもらえて。
それでも桜さんがみえてるってことは、やっぱり私の不幸は根深いものらしい。それでよかったと思う反面、なんだか嫌だって思う私もいて複雑な気持ちだ。人は誰しも幸せを追い求めるものなのかもしれない。
幸せになんてなってはいけないのに。
私の人生はひどいものだった。
両親から虐待を受けた。
幸せという感情を奪われた。
孤独で惨めだった。
でも桜さんと出会ってからは全てが変わった。桜さんと一緒にいれば幸せになれそうな感じがするのだ。私なんかでも幸せになっていいような気がしてくるのだ。
けれど桜さんの幸せのためにはそうなるわけにはいかなくて。だって、もしも私が幸せになってしまえば、桜さんを悩ませることになる。
大切なお母さんを選ぶか、恋をした私を選ぶか。その二者択一を迫ることになるのだ。桜さんにはそんな、辛い決断をしてほしくない。
湯船の中で同じようなことをぐるぐると考えていると、脱衣所に桜さんが入ってきた。
「どうしたの? 桜さん?」
問いかけるも返事はなく、無言。すりガラスの向こうの小さな人影はもぞもぞと動いていて、そこから布ずれの音だけが聞こえてきた。私の体は恐怖に固まった。
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