第9話

 すっかりご機嫌になった白犬が、尻尾を振って云う。


「秋鹿は良い奴だー。仲良くしてやってもいいよ。ねえ、兄者」


「ああ。俺の名は助六すけろく。こっちが弟分の茶漬けだ。よろしくお願い致すぞ、秋鹿」


 どちらもおいしそうな名前だなと、秋鹿は思いながら、


「よ、よろしくお願いします」


 店は午后ごごから開ける為に、午前中はハルはその準備に働いた。助六と茶漬けは外へ出ていってしまい、秋鹿は自分の部屋で、家から持ってきた本を読んで過ごした。


 昼食が済むと、ハルが云った。


「私は一時になったら、お店を開けます。秋鹿はどうしますか、」


 そう云われても、本を読むこと以外にすることが見つからなかった。


「本を読みます」


「まあ、秋鹿は本が好きなのね。では、図書館にでも行ってみますか、」


 この姿のまま外へ出るのは不安だったが、「はい」と、秋鹿は頷いた。持ってきた本はいずれも一度読んだものなので、ちょっぴり飽きていたのだった。


 ハルが店を開けるのと同時に、秋鹿は外へ出た。ハルに教えられたとおりに図書館へ向かう。秋鹿の住んでいる町とは違って、小さくふるい建物だった。


 重たげな硝子がらすの扉は開きっ放しになっていた。中へ入ってみると、人は少なく、静かであった。みな自分の読書に集中している。これなら気附かれることもなさそうだった。


 物音を立てないように注意しながら閲覧室を通り、書架へ行く。人のいる棚の前は避けて、誰もいない棚をじっくりと見ていく。数自体はさして多くはないが、ざっと眺めただけでも面白そうな本がたくさんある。秋鹿はすぐにこの図書館を気に入った。せっかく来たのに借りられないのが残念だった。


 棚の中に、ずっと読みたかった本を見つけた。辺りの様子を窺いながら抜き取り、ページをめくる。分厚い本だった。中学生の小遣いでは、十分に好きな本を買うことは難しい。買ってほしいと、母に頼むことも出来なかった。まさかこんなところで、読む機会に恵まれるなんて。


 憧れていた本は、最初の一文から秋鹿を惹きつけた。秋鹿は夢中になって本を読んだ。本を持つ手が痺れても、全く気にせずひたすらページをめくり続けた。


 不意にどさりと音がして、顔を上げると、棚の端に学生服を着た少年が立っていた。彼が鞄を足元に置いたのだった。秋鹿は急いで本を棚に戻そうとして、床に落としてしまう。


 少年が秋鹿の方を見る。秋鹿よりも少し年上、中学生ではなく高校生のようだった。怪しむように眉間をしかめると、こちらに近づいてくる。秋鹿は身動き一つ取れない。


 少年は身を屈めて本を拾った。表紙についた埃を軽く払うと、


「ほら」


 と、秋鹿に向かって差し出す。


「え……、」


 秋鹿はうろたえた。この人には自分が見えているのか。二人のまなざしが、かち合った。


 少年に背を向けると、秋鹿は走った。「おい!」と、少年の声が追いかけてくる。入り口で、ちょうど中に入ろうとしていた女性と、ぶつかった。


「痛……っ、え、何?」


 女性は訳の判らないように首をきょろきょろと動かす。やっぱり秋鹿の姿は見えていない。ならば一体どうしてあの少年は秋鹿のことが見えたのだろう。


 息を切らしてハルの喫茶店に駆け込んだ。ドアベルが鳴り、カウンターにいたハルと、テーブル席にいた二人の客が、一斉に秋鹿の方を見る。いけない、と、秋鹿は青ざめた。

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