14-2
「……行こう。もうすぐだ」
「そうね」
思いを振り払うように、二人は道を進んでいく。ここからは更に勾配のきつい場所が増え、道も何度か曲がっていくことになる。しかし警察が目印に木に赤いビニールテープを結んであって、それを辿っていけば迷うことはなかった。楽な山道ではなかったが、息を切らせながら二人は黙々と進んでいく。今は何を口にしても、気持ちが空回りしてしまいそうだった。
傾斜を新堂が登り、朝比奈もそれについていく。あの日のように手を貸すほどの事はなく、二人は順調に上っていく。
そして再び開けた場所に出る。周囲の木々の密度は濃く、周りの様子は見えない。そして正面に細い道がある。参道。いそい様の塚に続く道だ。山頂に辿り着いた。
「いいか、朝比奈?」
「ええ……」
新堂は少し緊張しながら朝比奈に聞いた。もし朝比奈の様子がおかしければ戻るつもりだった。だが、それは杞憂だった。決意を秘めた顔で、朝比奈はいそい様の塚のある方向を睨むように見ている。
それ以上新堂は何も言わず、変わらぬ足取りで参道を進んでいく。朝比奈もそれに続く。
一〇メートルほど進むと、塚が見えてきた。木製の真新しい社で、塗ってある防腐剤の臭いがまだかすかに漂っていた。その臭いに、新堂は一瞬ビーバーの獣臭を思い出す。ここで……あのビーバーと戦ったのだ。
「あの倒れていた木はちゃんとどかしたのね」
「そうだな。あれが残ってたら塚を直すどころじゃないからな……」
新堂は言いながら塚に近づいていく。次第に鼓動が早くなるのを感じていた。何もない……そう思っていても、やはりあの時の恐怖がよみがえる。
塚の台座は古い石積みがそのまま残っていたが、その上に載っていた石造りの社は取り払われて木製のものに置き換わっていた。内部には何も置かれていない。蝋燭が四本横にして供えられていたが、それがごぼうの代わりのようだった。
「いそい様……」
新堂は塚に向かってしゃがみ、そして傘を肩にかけて瞑目して手を合わせた。祈る言葉はなかった。ただここで起きた事を思い出し、遠い記憶を眺めるように見つめていた。朝比奈も新堂の後ろにしゃがみ込み、同じように瞑目して手を合わせる。
「何も起きない……終わったんだな」
「そうね」
新堂が立ち上がると、朝比奈も立ち上がる。朝比奈は不意に笑った。
「本当は怖かった。またビーバーでも出てきたらどうしようって。一人じゃ絶対これなかった」
「そうなったら、俺を囮にして逃げるつもりだったのか? ひどい奴だ」
「そういうもんでしょ、男の人の価値って……これで終わり? すっきりした?」
「この新しい塚を見たら……なんかどうでも良くなってしまった。俺が怯えていたものは消えてなくなった……本当に何だったんだろうな、あれは」
「いそい様……怪異……人の怨念。何百年も前の、人の想い」
「そんなものに人が殺されるとはな」
「うん……でも……」
何か言いたげな朝比奈に、新堂は目を向ける。
「でも……何だ? まだ何かあるのか?」
「……ビーバーの剥製は見つかっていない。あれだけ山狩りをしたのにね」
「それを言うなら津幡さんだって……小さいように見えても山は山だ。どこかの窪みとかに……隠れてるんじゃないのか。これだけ草が生えてたら、もう分からないよ」
「もうしばらくしたらまた警察が捜索するらしいよ。遺体があれば、それが腐敗して痕跡が残るからって」
「そうか。津幡さん……見つかるといいけど」
「本当にそう思ってる?」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味よ、新堂君。あなたは本当に……見つかると思ってるの?」
「まるで……お前はそう思ってないみたいだな」
「そう……私は思っていない」
朝比奈は言いながら、左手の斜面の方に近づいていく。その下にも沢水が走っているはずだ。ビーバーは最後に、その沢の下の方へ落ちていったのだ。
伸びた草の一本をつまみ、朝比奈が言う。
「ビーバーは生きている。今も、どこかで。そこでダムを作って、もう二度と会うことのできない奥さんと子供を待っている。津幡さんはそのダムと一緒に今も沈んでいる……そんな気がする」
「それは……」
かぶりを振りながら新堂が答える。
「それは妄想だよ、朝比奈。見つからないのは……たまたまだ。もうビーバーは死んでいる。いや、剥製だからそもそも死んでいるけど……なんていうのか、成仏してるよ、きっと。いそい様の怨念から解き放たれたんだ。それこそ、奥さんと子供の待つ天国にでも行っていることだろうさ」
朝比奈は無言でその言葉を聞いていた。引っ張っていた草がぷつんと切れ、水滴が飛ぶ。朝比奈は手についたその水滴を指をこすって拭った。答えを返さない朝比奈に、新堂は言葉を続ける。
「ダムだってどこにもない。あればいくらなんでも分かる。ここは本来のビーバーが住むような湖沼じゃないんだからな……ビーバーはいないよ。日本に、奴らの居場所はない」
「……沢はいそい川に繋がって、そして用水路に繋がっている。もっと上流の……山の方にだって行くことはできるんじゃない?」
「津幡さんの死体を担いでか? ビーバーは……剥製なんだぞ? 何であんな風に動けたのかは分からない。いそい様の怨念って言っても、それがどれほどの事か分からない。それでもあいつが動いて俺達を襲ったのは事実だが、それ以上の事は起きない。どこかに逃げて、今も生きているなんてことはあり得ないよ……。ビーバーの怪異は、この大学でだけ起きていたことだ。津幡さんが注文して、殺され、家族と離別した。その怨念は……もう消えたよ。消えたはずさ。お前が投げたぬいぐるみ……そいつで満足したさ。だからこそ、奴はもう姿を現していない。それが答えだ」
「本当に?! 本当にそう思うの? それで納得できるの? 私は――」
「もうやめろ!」
新堂の怒声に、思わず朝比奈は立ちすくむ。雨が傘を打つ音が響く。やがて、ゆっくりと新堂が口を開いた。
「悪い、大きな声を出して……でも、もういいだろう。終わったんだ。何もかも。塚はできた。ビーバーは消えた。津幡さんが見つからないのは残念だけど、それと怪異はもう関係ない事だ。もう終わった……何もかも」
新堂は自分の腕に残る傷をさすった。ビーバーの前歯や爪でついた傷跡だった。大分治ってきてはいるが、深い傷は痕が残るようだった。記憶に刻まれた傷のように、消えることはない。
「分かったわ。もう言わない……」
「ああ、すまない。そうしてくれ……」
新堂は塚を見下ろす。そして、あの時落ちた雷を思い出す。
まるで不浄なものを打ち払うかのようだった雷。鎮めの儀式はあれで完成したように思えた。神の存在を新堂は信じていなかったが、あの時の雷は神の存在を思わせるような出来事だった。しかも、それは二回も起きた。ビーバーにも雷が落ちたのだ。偶然とはとても思えなかった。
怪異。人の理解を超えるもの。人の力を超えるもの。人には到底受け入れられないもの。それが、この世界にはあるのだ。
「……帰ろう。濡れると寒い……風邪を引く」
「そうね。塚にお参りしたし……心残りは……ない」
二人は踵を返し、参道を戻っていく。振り返ることはしなかった。
「帰って寝るよ。疲れた……」
「レポートはやっていかないの」
「家の方がいい。ゼミ室は……広すぎるよ」
片岡の席が空き、そして津幡が来ることもない。元々狭いゼミ室だったが、今の二人には十分すぎるほどの広さだった。
「そう……来週、ちゃんと講義に出なさいよ」
「ああ」
新堂と朝比奈は首無し山を降りていく。全て終わったのだと自分に言い聞かせながら。
ふと、新堂は鳴き声を聞いた気がした。遠くから、絹を裂いたような鳴き声が。
その声に驚いて新堂が振り向くと、朝比奈が不思議そうな顔をしていた。まるで、何も聞こえなかったかのように。
いや、違う。何も聞こえなかった。聞こえなかったんだ……。新堂はそう思い直し、前を向いて再び歩き始めた。
雨が降る。今日もいそい川に水が注ぐが、流量は少なくいつものように底が見えていた。思い出も悲しみも流していってくれればいいのに。新堂はそう思った。
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