13-3

「あさ、ひなっ……! いいから、お前は早く捧げ物をっ……!」

 ビーバーに組み敷かれながらも、新堂は何とか言葉を絞り出す。その言葉で、朝比奈は自分の役割を思い出した。

「早く……捧げないと。手足と、頭を……」

 朝比奈は里芋のパックに力を込める。すると今度こそパックは切れ、里芋が外に出てくる。その内の一個を手に取り、四本のごぼうと一緒に塚に近づいていく。

「いそい様……どうか、怒りをお鎮め下さい……私達は、あなたを許します……」

 朝比奈はごぼうと里芋を潰れた塚の前に置いた。だし汁の絡んだ手を合わせ、そして祈る。それは心からの祈りだった。平和を祈り、片岡や津幡の安寧を祈る。そして、いそい様という怪異にまつわる全てに、安らぎが訪れるように。

 一際強い雷鳴が走る。それは朝比奈の目の前に落ちた。そして光から間髪入れずに爆発的な轟音が響き、衝撃と共に朝比奈は吹き飛ばされる。

「きゃああ!」

 朝比奈は仰向けに地面にたたきつけられた。頭を強く打ち、世界が揺れる。

「う、う……新堂、くん……」

 ぼやけた視界の中で、朝比奈は見た。ビーバーの前歯が稲光を反射し赤黒く光るのを。まるで我が子を食らうサトゥルヌスのような姿だった。

「くそ……! いそい様を鎮めても駄目なのか? それとも、鎮められなかったのか?」

 仰向けになってビーバーに押さえつけられた新堂は、塚の方を見て確認する。何も起きてはいない。悪霊が消えていくような兆候は何もなかった。さっき落ちた雷は何だったのか。たまたま偶然落ちただけなのか。

 いや、偶然などという事はない。それは兆しのはずだ。これだけの思いをして成し遂げたことに、何も起こらなかったわけがない。新堂は、都合がいいと思いながらそう思った。となると、あとはこのビーバーだけだ。

「いそい様を、許す……。じゃあビーバーはどうしろって言うんだ? こいつも許せってのか?」

 いそい様は凶悪な怪異だったかもしれないが、具体的な形を新堂たちは見ていない。むしろこのビーバーこそが諸悪の根源だった。今も新堂は殺されようとしている。それに片岡も津幡も、殺した実行犯はこのビーバーだ。許せと言われても、感情が邪魔をしていた。

「でも、こいつ……弱っている……!」

 新堂は巴投げのようにビーバーの下に曲げた脚を入れて、一気に跳ね上げた。ビーバーの体は水を吸った布団のようにずっしりと重かったが、ビーバーは新堂から離れた位置に落ちた。

 ビーバーは再び雷鳴のように鋭い鳴き声をあげた。しかし先ほどよりも力がない。新堂も感じたように、明らかにビーバーは弱っていた。

「うう……いそい様の力がなくなったのか……でも、このままじゃ……」

 新堂は弱り切った体で何とか膝をついて起き上がる。ビーバーは弱っていたが、それは新堂も同様だった。もう格闘するだけの力は残っていなかった。

 だがビーバーは敵意を緩めない。ガラス玉のような黒い目で新堂たちを睨み、前歯を剥き威嚇するように両手を上げる。自らも殺され、家族さえも奪われた怒りがその身の内に溢れている。許そうと何をしようと、それを止める事は出来ないように思えた。ビーバーこそ、何物をも許さない怒りの権化だった。

「お前は……俺達を殺したいのか……? そんなに人間が憎いのか……?!」

 新堂の問いにビーバーは吠え声で答えた。草食動物とは思えない獰猛な鳴き声、冥府の風が深い沼からこぼれ出てくるような声だった。

 新堂は決意した。例え自分が命を落としても、朝比奈だけは助けようと。だが差し違えるだけの手段もなかった。武器と言えば、せいぜい足元に転がっている石や、落としてしまった懐中電灯くらいのものだ。そんなものでどうにかできる相手ではなかった。

「ビーバー!」

 朝比奈のか細い声が響いた。何かと思い新堂が朝比奈を見ると、地面に伏せたまま右手を高く掲げている。その右手には何かが握られていた。

「あなたは家族が欲しいんでしょ! これが……これがあなたの家族よ!」

 朝比奈が手に持ったものを振る。それは小さなキーホルダーのようなぬいぐるみに見えた。中くらいのものと、小さいものが二つ並んでいる。

 ビーバーの意識が朝比奈に向く。言葉が分かっているのか、朝比奈が手にしたぬいぐるみを凝視しているようだった。

「受け取りなさい!」

 朝比奈の手が振られ、その手からぬいぐるみが飛んでいく。ビーバーはそれを追うように跳びあがった。

 雷鳴が走った。再び新堂たちの眼前に雷が落ちた。今度は塚ではなく、ビーバーにだった。

 雷鳴に続いて濁った唸り声が響き、落雷に吹き飛ばされたビーバーは離れた草むらに落ちて転がっていく。肉の焦げるような嫌な臭いが漂うが、それも吹き荒れる風ですぐに晴れていった。

「ビーバーは……死んだのか……?」

 新堂は痛む腕を押さえながら立ち上がり、ビーバーの消えていった草むらに近づいていく。草に荒れた痕跡があり、そこにビーバーが落ちたようだった。しかしすぐ下は斜面になっており、ビーバーの姿はない。それにそこにも沢水が走っていた。

「逃げたのか……ビーバーは?」

 少なくとも見える範囲にはいない。追って探すべきだろうか。しかし、その勇気は今の新堂にはなかった。

「いそい様の悪霊は鎮まったのか……?」

 落雷があった塚の部分からはまだ湯気が上がっていた。木の幹に触れるとまだ少し熱を持っていた。冷たい手に、熱が染み渡る。

「う、う……」

「朝比奈! 大丈夫か……?!」

 倒木の向こうで倒れたままの朝比奈に、新堂は足を引きずりながら近寄っていく。新堂が朝比奈の肩をさすると、朝比奈は新堂の手に自分の手を重ね、小さく笑った。

「終わった……終わったんだよね? これで、何もかも……?!」

「ああ……終わった……きっとそのはずだ」

「良かった……」

 朝比奈も体を起こし、地面に力無く座り込んだ。

「一体何を投げたんだ、さっき……? ぬいぐるみみたいに見えたけど」

「そう、ぬいぐるみ……クレーンゲームで取った、熊の親子のね」

「熊の? ビーバーじゃないのか」

「ビーバーのぬいぐるみなんて聞いたことないよ。でも、あのビーバーにはそれでも必要だったみたい。失くした奥さんと子供に会いたかったのよ、きっと。たとえそれが何の関係もないぬいぐるみでも……」

「あるだけましか……でも、どこに行ったんだ? 剥製に戻ったのか? それともまだ……」

「分からないけど……きっと剥製に戻ったのよ。雷に打たれて、あのビーバーは今度こそ本当に……消えていった。私はそう思う」

「俺もそう思いたいね。いてて……噛まれたり引っ掻かれたりで腕が傷だらけだ。帰ったら消毒しないと」

「それに、津幡さんも探さないと」

「ああ。俺達だけじゃ無理だ……警察を呼ぼう」

「警察……そうね」

 朝比奈が立ち上がろうとし、新堂が手を貸す。二人はふらつきながら互いを支え合う。

「最初から警察を呼んでいればどうなっていたんだろう」

 朝比奈の問いに、新堂が少し考えて答える。

「もっと被害が大きくなってたんじゃないか? 警察が死んでたら……危険な野生動物の仕業だって首無し山を山狩りしていたかもしれない。大勢の人が押し寄せれば、いそい様やビーバーを刺激してもっとひどいことになっていたはずだ……これで良かったんだよ。良くなんかないけど、でも、他にしょうがなかったんだ……」

「そう、ね……」

 朝比奈は潰れた塚に寂しそうな視線を向けた。いそい様の怒りは鎮まった。しかし、塚は壊れたままだ。このままではいずれ同じようなことが繰り返されてしまうかもしれない。

 だが、今できることは何もなかった。いそい様に安息が訪れることを信じ、新堂と朝比奈は首無し山を後にした。

 ビーバーのいなくなった山を、疲れ切った足取りで降りていく。語る言葉は何もない。ただ疲労と悲しみが二人の体の上に積み重なっていた。

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