13-2
「これ……沢……?!」
足元を向いた朝比奈の懐中電灯が、僅かに流れている水を照らしていた。並木道の脇に沢の流れがあり、それが斜面を下って流れて行っていた。
「ひょっとしてここが源流なのか? いそい川の……?」
津幡が消えていった沢を思い出す。あれも下流では他の沢水と合流していそい川となるのだろう。今見えている子の沢も同様だ。つまりビーバーは……ここにやってくるかもしれない。新堂の胸に嫌な予感が浮かぶ。
「くそっ! 今更びびってどうするんだ! 全部承知でここに来たんだ……いそい様でもビーバーでも鎮めてやる!」
己を奮い立たせるように新堂は言葉を口にする。そして、まるで参道のように奥へ続く並木道を進んでいく。
木の密度が高く、周囲はいよいよ暗くなる。まるで洞窟の中にでもいるように真っ暗だ。
そして臭いが鼻につく。獣臭ではない。もっと普通の、土や草の臭いだ。それらがまぜっかえされたような、子供のころ遊んでいた時に嗅いだような臭い。
「これ……なのか?」
道の奥には草もなく開けた場所があった。だが視界の半分が木で埋めつくされている。それは普通に生えた木ではなく、倒木のようだった。
太い……直径数十センチのそれなりに太い幹の木が視界の左側に倒れていた。奥に見える根元の土は根と一緒に引き起こされたようになり、大小何本もの分岐した根が見えていた。一部は折れて裂けたようになっていて、倒れた時に割れたもののようだった。
その幹は何かを押しつぶしていた。目の前にある空間のちょうど中央……そこに石を積んだものが残っていた。津幡が撮った写真で見たあの塚だった。それが倒木で破壊されている。
「木が……風か何かで倒れたのか?」
「立ち枯れしたのかも……随分古い木みたいだわ。幹も苔むしている……」
朝比奈が倒れた幹を照らすと、確かに側面にも苔が生えていた。木の節の内部が空洞になっているような所もある。長い年月の間に少しずつ朽ちて、何かのきっかけで根が耐えられなくなって倒れたようだった。
「塚を……直さなきゃ!」
朝比奈が言いながら前に出る。新堂も遅れないようについていく。
近くに行って照らすと、塚は完全に潰されているようだった。左右に立てた薄い石の板の上に屋根のように平たい石が置かれていたようだが、それが全部木に潰されている。恐らく内側にあった空間にはご神体のようなものが置かれていたのかもしれない。だが津幡の写真でははっきりと見えなかったし、潰れた今となっては何が入っていたのか分からない。
木をどかすことが出来れば確認も出来るが、とても無理のようだった。人力では何人いても無理だろう……木の重量は数百キロ……いや、数トンあるかも知れない。何の道具も持たない新堂たちの手に負えるものではなかった。
「ここに……ここにごぼうを供えればいいの?」
朝比奈が震える手でビニール袋からごぼうを取り出す。真空パックされたごぼうの煮物だった。
「供える……そう、供えるんだ。でも、どうすればいいんだ? 塚は……こんなんじゃ駄目だ! でも、直しようもない!」
空で雷鳴が轟く。降りも激しくなり、雨を拭っても拭っても新堂の視界が晴れることはなかった。
新堂は膝をつき、潰された塚に手を伸ばす。かつて作られたいそい様の塚。この下に手足と首を切り落とされた胴体が眠っているのだろうか。いま、その怨念は目覚めている。塚が潰されたことで枷を失い、再び近づくものに恐怖と死を与えている。
そんなものに、ごぼうを供えた程度で何になるというんだ。新たに塚を建て、ちゃんとした儀式を行わなければ恨みなど晴れようもないだろう。
いそい様は狂っている。狂気の存在だ。道理などない。理屈もない。ただ不条理に命を脅かす。危険な存在だ。
そんなものを、昔の人たちはどうやって鎮めたというのだろうか。
「私は……諦めない……」
朝比奈がごぼうのパックの封を切り、中からごぼうの煮物を素手で取り出す。
「ここまで来たのに! こんな所で諦められないよ! 津幡さんまで死んで……こんなんじゃ顔向けできないよ!」
強い雨が朝比奈の手のごぼうをも濡らしていく。朝比奈の気持ちは痛いほどよく分かる。だが、本当にこの潰れた塚にこんな煮物を供えていいのだろうか。冷静になろうとすればするほど、自分たちのやろうとしていることがおかしいように思えてしまう。
「……考えろ。考えるんだ。塚は何の為にある? 何のための儀式なんだ?」
新堂は津幡の言っていたことを思い出す。儀式は大別して三つだ。許し。神格化。希釈。その三つだといっていた。そしていそい様の場合に最も当てはまるのは許しだ。
いそい様が憎まれていたのならば、その遺体さえもぞんざいに扱われたことだろう。それがまたいそい様の悪霊化を招くことになったのかもしれない。だが、当時の人々はそれに対し塚を作った。悪神ではなくいそい様として。敬意をもって塚を建て、それを奉じたのだ。
それが、許し。怒りがあっただろう。恐怖もあっただろう。しかし、人々は手を合わせることを選び、いそい様に祈りを捧げた。
許し。それが必要なんだ。新堂はそれを理解した。
風雨が荒れ雷鳴が空を裂く。全身が濡れそぼり立っているだけで体力を消耗していく。いつビーバーに襲われるとも分からない緊張の中で、しかし、新堂は意外にも平静な心を取り戻していた。
「朝比奈。供えるのは四つだ。四本の手足。数を合わせるんだ」
「四本……分かった! じゃ、じゃあ……頭もいるんじゃないの?!」
「頭だって?」
「いそい様は頭も切り落とされた……頭を探し求めている! 供えるんなら、頭もなんじゃないの?」
「そうか……! だけど急にそんな事を言ったって!」
「ある! あるの……! 里芋……もしかしたらと思って買ってきていたの!」
朝比奈は足元のビニール袋の中からもう一つの真空パックの総菜を取り出した。それは里芋の煮っころがしだった。
「里芋……分かった! それだ! 早く取り出すんだ!」
「分かった……待って! 指が、冷たくてかじかんで……!」
朝比奈の指が滑りうまくパックを切れない。しゃがみ込んで、力を入れながら何度もやり直す。
「何やってるんだ、朝比奈! それを貸――」
里芋を取り上げようとして、新堂は参道の向こうに動くものを見た。細い道、ぬかるんだ地面を短い手足が駆け抜ける。ずんぐりとした丸い体が左右に揺れながら近づいてくる。
「ビーバーだ!」
「ええっ?!」
朝比奈が恐怖に顔を歪めながら振り返ろうとする。それよりも早く、新堂は朝比奈の脇を駆け抜けてビーバーの前に立ちふさがる。ほとんど倒れ込むように、タックルするように上半身をぶつけていく。
「うおおっ!」
雷鳴にも似たビーバーの鳴き声が響いた。雷光が間断的に一人と一匹を照らす。毛むくじゃらの短い腕と、新堂のなまっちろい腕が組み合い、上下を入れ替えながら泥の上で回転する。
「新堂君! 新堂君!」
動転した朝比奈は里芋のパックを手にただ叫ぶことしかできなかった。ビーバーは地面を蹴り、そして自らの前歯を新堂の喉元に突き立てようとする。新堂は腕で全力でビーバーを押しのけ、その前歯から逃れようとする。
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