13-1 塚の在りか

 津幡の汚れた眼鏡をズボンのポケットに入れ、新堂は沢をまたいで先に進んでいく。道らしい道は見えない。しかし、自分で探して進むしかない。先頭を歩いていた津幡はもういないのだ。新堂自身が道を切り開くしかない。頼りになるのは、自分の感覚だけだった。

 草に分け入って歩いていく。草についた水滴が服に当たり、もうズボンはびしょ濡れになっていた。体が冷えてくる。しかし弱音を吐いている暇はない。

 足元の堅さを確認し、道の痕跡をたどりながら新堂は進む。その間も、新堂の背後からは朝比奈の嗚咽が聞こえていた。

 片岡に次いで、津幡まで。津幡は友人というほどの関係ではなかったが、それでも親しい間柄ではあった。無残な最期を遂げたと考えれば胸が痛くなる。朝比奈の感情を、新堂は止める気はなかった。しかし、構ってもいられない。泣こうが喚こうが、前に進まなければならない。

 新堂は首無し山の航空写真を思い出す。さっき開けたところから大学が見えた。それが中腹だと津幡は言っていた。だとすれば半分は登ってきた事になる。

 登り始めて三〇分ほどが経過している。もう二〇分かそこらで頂上に、塚に到達するはずだ。

 一番の問題は、道があっているかどうかだ。どれだけ登ろうが塚に辿り着かないのでは意味がない。登山道によくあるような標識を探すが、登り始めてから一度も見ていない。首無し山は名前の不気味さもあってハイキングの対象となるような山ではなかったのだ。過去には由来の不吉さを思わせるような転落事故も起きたと言われている。言ってみれば、禁足地のようなものだったのだ。

 人が通わない山の中に不吉をたたえた塚が一つ。人が通っていたのなら、今も信仰があったのなら、こんな事にはならなかったのだろうか。それともなまじ塚が残っていたばかりに、いそい様という怪異が今日まで生き残ることになったのだろうか。

 その真偽は分からない。正解も分からない。ただ分かるのは、いそい様は今も存在しているという事だ。架空の存在ではなく、空虚な概念ではなく、現実の脅威なのだ。

 祈ることで守れるのだろうか。信じることで救えるのだろうか。立ち向かう事で止められるのだろうか。それは嵐を前に身一つで立ちふさがるような愚かな行為なのかもしれない。何百年も受け継がれ、そして人の死を吸収し、重ねられてきた不幸。澱のように重なった因縁が何重もの蜘蛛の糸のように絡み合い、けして解けることなく近づくものを取り込んでいく。

 それは生命の輪廻から外れた現象だ。生きる為に食らうのではない。ただ近づいたものを傷つけ毀損するために食らうのだ。いや、食らってすらいない。ただ食い荒らし、その死体をばら撒いているだけだ。

 いそい様がどれだけ手足を集めても、その傷が癒えることはない。自分以外の他人の頭をどれだけ集めても、満たされるはずがない。何もかもが狂っているのだ。最初から。終わる事のない狂気。それが塚という形で封じられていたが、今目覚めてしまった。

 それは不幸なことだ。新堂たちにとっても、いそい様にとっても。このまま歴史の影で、山野の草いきれの中で塵となっていればよかったのに。何もかもが消え、因縁が消えてしまえばよかったのに。

 だがそうはならなかった。

 それもまた因縁だ。片岡は死に、他に二人死んでいる。そして津幡も……。糸の端に手をかけ、縁を踏んでしまった。ただそれだけで呑み込まれたのだ。いそい様という渦の中に。

 災禍はうずだ。巻き込み、取り込んで、そして何もかもを粉々にして吐き散らかす。因果の散逸系。人無しではあり得ず、人ある限り動き続ける渦動。意味などない。意味があっても人には理解できない。ただそこにある。その災いが、ビーバーの無念をも取り込んで形を成したのだ。

 新堂は額に滴る水を拭い歩いていく。時々立ち止まって方向を確かめなければ、本当に前に進んでいるのか分からなくなる。曲がって、曲がって、ひょっとして同じ所に来ているのではと錯覚する。堪らない恐怖だった。闇の中で、自分の位置を見失う。それもビーバーの化け物に追われながら。

 一つだけ救いがあるとすれば、それはビーバーが津幡と共に姿を消した事だった。ビーバーがどこに行ったのかは分からないが、少なくとも沢の水と共に下流へと行ったことは間違いない。津幡もどこまで引きずられていったのかは分からないが……もしその先で津幡がまだ生きているのなら、きっとビーバーと戦っていることだろう。

 残念ながら銃声は聞こえない。或いは周囲の草と雨音で聞こえなくなっているのかもしれないと思ったが、銃声はそれほど小さな音ではない。きっと大きくない山全体に轟き響いていることだろう。それがないという事は、少なくとも銃を撃てるような状況ではないという事だ。

 それでも、きっと……。津幡は時間を稼いでくれている。そう信じるのが新堂にできる唯一の事だった。何もできずにただ犠牲になったなどとは思いたくなかった。

「ねえ、新堂君……」

 背後からかけられる声に、僅かな苛つきを感じながら新堂は振り返った。

「何だ、朝比奈」

「本当に……いそい様を鎮められるの?」

「何? 何を言ってるんだ、今更!」

 新堂は足を止め、声を荒げた。

「鎮めるんだよ……俺達で! もう俺達しかいないんだ! 片岡も、津幡さんも……! 俺達でやるしかないんだ!」

 その声に、朝比奈は泣きそうな顔を見せた。

「や、やるしかないって……どうするのよ?! 儀式の事なんて何も分からない! 知っていたかもしれない津幡さんももういない! ビーバーがいつ戻ってくるかも分からない……」

「そんな事は分かってる! でもやるんだよ! 儀式に必要なごぼうは持ってきた……それを捧げるしかない!」

「でも……でも……」

 食い下がる様に朝比奈が言う。

「それでも、鎮められなかったら……!」

「それは……」

 それは、考えていない事だった。なかば無視するように、考えないようにしていた事だ。素人が思いついたような儀式の真似事で、本当にいそい様を鎮める事が出来るのか。仮に完璧な儀式だったとしても、再び暴威を振るい出したいそい様を鎮める事が出来るのか。足りないものばかりだ。安心できる要素など何もない。ごぼう……ごぼうが、何だってんだ! 新堂は叫び出したい気分だった。

「お前は逃げろ、朝比奈」

「えっ?!」

「もし駄目だったら……いそい様もビーバーも止められなかったら……お前は逃げろ。俺は……」

 ここで食い止める。時間を稼ぐ。何とかする。何を言おうとしたのだろうか。それ以上の言葉を続ける事が出来なかった。

 何を言っても、嘘になりそうだった。武器もない。知恵もない。ただ恐怖だけが胸の中にある。信念などとうそぶいても、所詮は口先だけのものだ。許すことなどできず、ただ震えるばかりだ。もし次の瞬間にビーバーが現れたら、あの恐ろしい前歯が襲い掛かってきたら、自分はそれでも戦う事が出来るのだろうか。新堂は朝比奈の問いに、本当の意味では答えられなかった。

「行こう……行くんだ。塚を目指そう。そこで全部終わらせよう……」

「うん……うん……」

 朝比奈の頬を伝うものが雨なのか涙なのか分からなかった。そして、自分の頬にも。

 見上げる空に雷鳴が轟いていた。ぐずついていた天気はいよいよ本降りになり、傘を持たない体はずぶ濡れになりつつあった。新堂のリュックも、中に入っているレポートの束もぐしょぐしょになっていた。だが最早何が書かれているかは大きな問題ではなかった。答えがないのだから、もう見ても意味はない。新堂は航空写真で見た位置関係だけを思い出し進んでいく。

 道が曲がる。勾配がさらにきつくなり、斜面を這うように登っていく。足元に木杭を打ち込んだような痕跡がある。この道であっている……その感覚だけが新堂の足取りを確かなものにしてくれた。

「朝比奈、大丈夫か」

 斜面を登ったところで新堂が振り向くと、朝比奈も必死な様子で登っている所だった。新堂が手を差し伸べると、朝比奈はその手を掴む。触れた手の温もりは微かだった。新堂の手も、朝比奈の手も、雨に濡れ冷たくなっていた。体の奥底で熱が燃えている。だがそれは儚いものだ。恐るべきビーバーの前歯は容易に喉を食い破り、体をずたずたに引き裂いてしまう。

 何故、こんなにも弱いのだろうか。なぜ人はこんなにも弱いのだろうか。普段考えたこともなかった。ただ夜の山の中で雨に濡れているだけだ。それだけで例えようもなく心細くなり、足がすくんでしまう。体は風に凍えそうだった。闇の中に恐ろしい影が見える。人はあまりにも無力だった。新堂はそれを痛感していた。

 いそい様が怖い。ビーバーが怖い。山が怖い。水も、雨も、風も。ぬかるんだ地面も。木のとげも。皮膚を切るような鋭い葉も。何もかもが怖かった。

「行こう、朝比奈」

「ええ、分かってる」

 二人のつないだ手はか弱く、自然の前には無力だった。それでも、二人は互いの手の感触を信じた。一人ではない。ただそれだけが支えだった。

 懐中電灯が二人の行く先を照らす。尾根を越え、木をまたぎ、そして斜面を登っていく。恐怖の中で奇妙な確信があった。この道で正しいと、塚に辿り着くと、新堂は確信をもって進んでいく。

 そして――。

「着いた……のか?」

 傾斜が緩やかになり、開けた場所に出る。草は生えているがまばらで、明らかに踏み固められた場所だった。周囲を見ても木しか見えないが、上空を見上げると葉の隙間から黒い空が見えた。航空写真で見たあの場所のようだった。

「ここ……ここなの、新堂君」

 朝比奈も不安げに周囲を見回す。二人とも手や膝下が泥まみれになっていた。朝比奈の持っているビニール袋も泥だらけだった。

「きっとここだ……塚を探すんだ! 奥にあるはずだ!」

 新堂は懐中電灯で奥の方を照らす。しばらく開けた場所が続き、やがて並木道のように細くなって奥に続いている。今いる場所からでは、奥の様子は暗くてよく見えない。


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