12-2
数分ほど歩くと、少し開けた斜面に出た。いそい川も左右の側溝に分かれて流れ込んできている。
「ここがかつての登山道の入り口だ。首無し山は標高四〇〇メートルくらいで、普通に歩けば三〇分ほどで塚に辿り着ける。道が分かりにくいが……辛うじて痕跡があるな。これなら何とか行けそうだ」
津幡が道の先を懐中電灯で照らす。新堂の目には道がどこなのか分からなかったが、津幡には見えているようだった。
「よし。いそい川の源流は僕も知らないが、山からは何本も沢があってそれがここで合流して一本の川になっている。山に入ればどこに沢があるかもわからないが……ビーバーもそこに潜んでいるかもしれない。草で分かりにくいからな……二人とも周囲の状況には気を配ってくれ。ここからは完全に奴の領分だ……」
「分かりました……」
「ええ、ちょっと怖いけど……」
津幡は散弾銃の安全装置を外しているのを再確認し、銃口を進行方向に向けながら進んでいく。新堂と朝比奈はその津幡の進む方向を照らしながら後を付いていく。
山の中は草が茂っていた。まだ四月で初夏には遠いが、日中の温かさで芽吹く草花は多かった。これが夏だったらもっとひどい有様だっただろう。ひざ丈ほどの高さの草をかき分けながら、三人は進んでいく。
「人の入った形跡がないな……山菜取りとかの人も入らないのかな、この山には」
津幡の言葉に、新堂が聞き返す。
「痕跡って……そんなの分かるんですか?」
「ああ、よく見ればね。人が踏み入った痕はちゃんと残る。草が折れたり曲がってたり……山に入る機会が多くなれば分かるもんだよ」
「そうなんですね。津幡さん、ちゃんとフィールドワークしてるんですね」
「おいおい、何だその言い方は? まるでしてないと思われてたみたいじゃないか」
苦笑しながら津幡が言った。
「だっていつも変な論文ばっかり書いてるじゃないですか。今回だってビーバーが河童だとかなんだとか……」
「凡人のセンスじゃ僕の論文のすごさを理解できないってだけさ。でもまあ……こんな事があったからビーバーの論文は駄目だな。しばらくは見る気にもならない」
「そうですね。もっと無難な論文でも書いてください」
気の抜けるような会話をしながら三人は進んでいく。進むにつれ、新堂にも何となく道とそれ以外の場所の区別がつくようになってきた。下草が若干短く、踏んだ感触も硬い。踏み均された痕跡が今も残っている。
「さて、ここはどっちだ……」
これまで止まることなく歩いてきた津幡が脚を止めた。正面には太い木があり、道が左右に分かれているように見える。だが新堂には区別がつかなかった。
「登り口はなだらかで、しばらく行くと勾配が上がっていくんだ。今はその勾配が上がるところだと思うんだけど、さて、右だったか左だったかな? 覚えていないな……」
津幡が首をかしげながら周囲を見回す。いつの間にかぽつぽつと雨が降ってきていて、頭上からは濡れた木々からの雫が落ちてきていた。
「津幡さんの書いたメモがあります。ちょっと見てみます」
新堂はそう言うとスマホの写真アプリを起動する。津幡の家で見た位置図を表示し、津幡にも見えるように前に出す。
「地図か……覚えてないが……これも僕が描いた奴か」
「はい、そうです。赤線で曲がりくねった道が描かれています……これは実際に曲がった時の道を示しているんじゃないですか? 地図アプリで見ると……この辺だ」
アプリを切り替えて航空写真を表示する。僅かに細い道のようなものが右側に続いているように見えた。
「思い出すことはできないが、航空写真とメモからすると右のようだな。ありがとう、新堂君。助かるよ」
「いえ、これも津幡さんが作った資料のおかげです」
「ちゃんと使いこなせてこその資料さ。さ、先を急ごう」
津幡が再び歩き出し、新堂たちもその後をついていく。山道の勾配が少し急になり始め、足元のぬかるみに足を取られ始める。
その後も何度か立ち止まり方向を確認しながら進み、道があっていれば恐らく山の五合目といった辺りに出た。
「ここだ……この道であっている!」
津幡が振り返りながら言う。新堂と朝比奈も同じように振り返るが、そこには街の景色があった。ほとんどが農地でついている明かりはまばらだが、大学の学習資料棟の光も見えた。
「二年前もここから大学を見たんだ。道はあっている。このまま進めば塚まではもうすぐだ」
「良かった……もうすぐなんですね!」
新堂と朝比奈は顔を見合わせ笑顔を見せた。陰鬱で悲壮な決意の中での行軍だったが、少しだけ希望が見えた。後はこのまま何事もなく鎮めの儀式を行えればいうことはない。
「よし、行こう」
津幡が前を向いて歩きだす。だがすぐに足を止めた。
「どうかしましたか、津幡さん?」
新堂が聞くと、津幡は口元で指を立てた。新堂と朝比奈はそれを見て口を噤み、そして耳を澄ませる。
「聞こえないか……?」
「聞こえるって、何がですか……?」
朝比奈が小声で聞き返すが、津幡は答えずに周囲に耳をそばだてる。新堂は微かな音を聞いた。それは水の流れる音だった。まばらな雨音に混ざり、確かに水の流れる音がする。
「沢の音……ですか?」
「そうだね。流量はさほどでも無いようだけど……もう少し先を流れているらしい」
津幡が警戒するようにゆっくりと前に進んでいく。警戒するもの……それはビーバーだ。これまでは山道だったが、水場となればビーバーが出てくる可能性は高い。もしも上流で待ち構えているのだとすれば、これから遭遇する確率は限りなく高くなっていく。津幡が警戒するのも無理はなかった。
「君たちも周囲をチェックしてくれ……」
津幡の小声に無言で新堂たちは頷く。懐中電灯で草むらを照らしながらゆっくりと前に進む。闇の中にきらりと光るものが見える……まるでビーバーの目のように。夜の闇を凝集させたかのような黒瞳……その光を雨粒の反射の中に見てしまう。いない。ここではない。募る不安を隠しながら、新堂たちは前に進んでいく。
「ここか……」
津幡が立ち止まった。新堂がその足元を見ると、幅五〇センチほどの沢が流れているのが見えた。水深もそれほど深くはないようだった。とてもビーバーが身をひそめられるほどの流れには見えなかったが、水は水だ。奴が現れるかもしれない。油断のない津幡の視線を見ながら、新堂たちも左右を照らしビーバーの姿を探す。
「いそい様は失った手足と首を求める……」
不意に津幡が呟き始める。周囲を監視しながら、新堂は耳だけ意識を津幡に向ける。
「二人分の水死体には片腕と片足がなかった。そして片岡君は片腕と首を切られた。となると足りないのはもう一本の脚……」
津幡が言わんとするところを、新堂も理解した。ビーバーはまだ探し求めている。足りない体の一部を、もう一本の脚を。
「奴が現れる時には兆候がある」
津幡が散弾銃を握る手に力を込めた。姿勢をわずかに落とし、呼吸を整え始める。
「生臭い風が吹く……」
ざわ……と、風が吹いた。それはこれまでの冷たい夜気を孕んだ風ではなかった。どこか温かみのある、しかし少しも安らぎのない風。血のような臭いが風に交じり、そして獣の臭いが漂い始める。
「伏せるんだ!」
津幡の声に、新堂は咄嗟にしゃがみ込んだ。一瞬遅れ朝比奈も草の中にしゃがみ込む。頭上では津幡が散弾銃を左右に向けながら今にも撃ちそうな勢いだった。
いる。間違いなく、奴がいる。漂う生臭い風の中で、新堂はそれを確信した。ビーバーが再びやってきたのだ。
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