10-2
「化け物め……始末してやるぞ!」
津幡は左腕の痛みをこらえながら散弾銃に新しい弾を込めた。銀の混ざった散弾。動かないビーバーに照準を合わせ、もう一度撃った。
ビーバーの頬を掠め、その背後の水面が弾けた。痛めた左腕で支える銃身が僅かにぶれたのだ。津幡は歯ぎしりし、再び狙いをつける。
だが今度は、ビーバーも逃げ出した。水面を跳ねるように動きながら学習資料棟の方へ逃げて行く。
「待て、ビーバー!」
左右に蛇行するような動きのビーバーに狙いをつけ、もう一度撃つ。しかし当たらない。津幡は舌打ちをし、もう一度弾を込め直す。持ってきた弾は全部で二十発。もう四発使って、残りはあと一六発だ。まだ余裕はあるが、こんな調子では本当に仕留められるのか怪しいものだった。
津幡は自分の腕に自信を持っていた。しかしそれは、安全な立場からの一方的な射撃に過ぎなかった。標的も粘土の塊だ。
襲われるかもしれない、殺されるかもしれない。そんな重圧と恐怖の中でいつもと同じように撃つことはできない。そのことを今更ながらに津幡は実感していた。
ビーバーの逃走は思いの外早かった。駐車場の水たまりは途切れたが、アスファルトの上をビーバーは器用に走っていく。津幡は追うが、重たい散弾銃を持っていては思うように走れなかった。
ビーバーは学習資料棟を越え、林に逃げ込んでいく。津幡も散弾銃を構えながら林に進入していく。
「どこだ……どこに行った?」
陸上なら自分の方が有利……津幡はそう思っていたが、林の中ではそうでもないようだった。暗くて視界が不十分だ。動いていれば分かるだろうが、じっとしていたら見落としてしまいそうだった。周囲の木の陰や窪みにも注意を配るが、どこにいるのか見当もつかない。
学習資料棟の近くだと三階の光でまだかすかに地面も明るかったが、離れていくと当然暗くなる。実際にビーバーが現れ、いつ襲ってくるかもしれない状況というのは、強いストレスと恐怖をもたらしていた。構えた散弾銃が震えるのは、寒さのせいばかりではなかった。
津幡は左右に銃口を向けながら林の中をさまよう。いつにない緊張感が津幡に押し寄せていた。
バキバキと木の枝が折れるような音が聞こえた。咄嗟に津幡は音のした方へ銃を向けるが、ビーバーの姿はない。聞き違いではない。何かがいたはずだ。
不意にざわざわと木々の揺れるような音が周囲に響く。風か? しかし、風は穏やかだった。葉っぱが揺れるほどの風は吹いていない……だが、視界の端で何かが急速に動いていた。
「なん……だと……?!」
それは、木だった。木がまるで襲い掛かる様に倒れ込んでくる。一体何が?! 理解するより速く、津幡は横に飛んで木を避けた。
小さな地響きと共に木が地面に倒れる。泥が跳ね、葉っぱが舞い散る。津幡はぬかるみの中で横になりながら、何が起きたのか思考を巡らせていた。
「木……そうか、奴はビーバー……!」
ビーバーは木の根元周辺をかじって倒し、それをダムの材料にする。それをやったのだ。生えている木の根元をかじり、それが津幡のいる方へ倒れるように仕向けたのだ。
普通のビーバーならそんな事はできないだろう。しかし、今相手にしているビーバーはやはり普通ではなかった。恐ろしく賢く、そして執念深い。津幡の移動する位置を予測し、そして木を倒したのだ。
だが、木を倒したという事はその根元周辺にいるという事だ。津幡は起き上がり散弾銃を木の根元の方へ向ける。津幡は闇の中を睨む。僅かの動きも見落とさないように、息を殺し神経を集中する。しかし、闇の中にビーバーの姿は見えない。
「どこだ! どこへ逃げた!」
津幡は周囲へ銃口を巡らせながら、荒い息をついて動き回る。
「出てこい! 化け物め!」
林の中に津幡の声が響く。ビーバーの姿はない。逃げられたのか……? 津幡はそう思い、少しだけ安堵していた。
だが、即座にその思考を捨てる。ここに来たのはビーバーを倒すためだ。ビーバーに怯える為じゃない。ビーバーに殺された片岡たちの無念を晴らすためにも、この散弾銃で仕留めなければならない。
津幡は決意も新たに周囲を警戒する。いそい川に戻った様子はないから、この林のどこかに隠れているのだ。そしてあの前歯で津幡を噛み殺そうとその機械を虎視眈々と狙っているはずだ。
ビーバーには恐るべき跳躍力があった。多少離れていても一瞬で距離を詰められてしまうだろう。見つけた瞬間に撃つしかない。もみあいになれば、こちらが圧倒的に不利だ。津幡は血のにじむ左腕の痛みをこらえながらビーバーを探し続ける。
緊張を途切らせないまま数分が経過する。散弾銃を構える腕も重さを感じ始めるが、ここで気を抜くわけにはいかない。時折木々の揺れる音が聞こえるが、ビーバーの姿は見えない。
ひょっとして、逃げられてしまったのか。全く姿を見せないビーバーに、津幡は焦り始める。
ビーバーは一度津幡を襲ったが、それは失敗した。厄介な相手だと思われたのなら、逃げて他の犠牲者を探しているのかもしれない。こうしている間にも誰かに危機が迫っているのか? その考えに、津幡はぞっとした。倒しに来たのに、これ以上犠牲者が増えるなんて本末転倒だ。
「別の所を探してみるか……用水路の方へ行ったのかも……」
津幡は散弾銃を下ろし重く息をつく。ずっと同じ姿勢で緊張感を保っていたせいで、どっと疲れが出ていた。
ざわ、と、木が揺れた。これまでにも何度か感じた木の動き。また風が吹いたのか……そう思ったが、何か嫌な予感がした。
鼻をつく獣臭。風に乗って、何か嫌なものが近づいてくる。咄嗟に、津幡は散弾銃を上の方に向けて構えた。
叫びと共に黒い影が落ちてくる。それは頭上からの攻撃だった。ビーバーが津幡の頭に勢いよく落下し、そして前足でめちゃくちゃに引っ掻いてくる。
「うわわわっ!」
津幡は言葉にならない叫びをあげながら夢中で散弾銃を振り回した。鼻をつく異臭がすぐ眼前にあり、ごわついた毛の感触が顔を擦る。無我夢中で抵抗する津幡の指が引き金に触れ、そして散弾が発射される。
銃声。そしてビーバーが鳴いた。どこか悲し気な、後を引く声だった。そして津幡の頭から転げ落ち、地面に伏せるように低い姿勢を取る。その口からは木のうろを通り抜けた風のような音が聞こえていた。
「ううっ、くそ! これでもくらえ!」
津幡の眼鏡はビーバーの攻撃でずれ落ちてはっきりと前が見えていなかったが、その銃口はビーバーを捉えていた。ビーバーは危険を察知してか、動こうと地面を蹴る。しかし、それよりも早く津幡の指が引き金を引いた。
散弾がビーバーの体に叩きこまれた。布を引き裂くような声が響き、そしてビーバーは勢いよく飛び跳ねた。
津幡はその動きを負い追撃しようと引き金を引いた。しかし、すでに二発の弾丸を打ち尽くし、散弾銃からは何も発射されなかった。
「くそっ! せっかくのチャンスなのに……!」
津幡は大急ぎで散弾の弾を込め直す。その間にもビーバーはいそい川の方へと飛び跳ね、そして勢いよく水の中に飛び込んでいった。
散弾を込め直し、津幡は川に向かって発砲した。水面を散弾が叩くが、既にビーバーの姿はなかった。
津幡は銃を構えながらいそい川に近づいていく。水は濁っていて深い部分は見えない。ビーバーの姿はなく、血痕のような痕跡も見えなかった。
「確かに当たった……だが、やはり剥製の化け物だからそう簡単には死なないのか……? 一体どうすれば?」
嘆息しながら津幡は空を仰ぐ。そしてずれて鼻に引っかかっていた眼鏡をかけ直す。レンズは泥に汚れ、太い毛が何本か絡みついていた。津幡は眼鏡を外して指で汚れを拭うと、つばを吐き捨てた。喉の奥に、まだビーバーの放つ嫌な臭いが残っているようだった。
「上流か、下流か? どっちに行った? こういう時ビーバーはどう動くんだろうな……」
散弾銃の弾はまだ十発以上残っている。追いかけて戦うことは十分に可能だった。左腕の傷は痛んだが、動けなくなるほどの傷ではなかった。出血もそれほどではない。
津幡はいそい川に沿いながら上流の方、南の方へと歩き始めた。特に当てがある訳ではなかったが、下流の北側に行っても用水路との接続部分にダムがあって行き止まりになっているだけだ。それよりは上流の方へ逃げたのではないか……何に根拠もなかったが、そう思い歩き始める。
やがていそい川を横断する橋に到達する。津幡は橋の上に乗り、川の中の様子を覗き見る。しかし、ビーバーの痕跡は見当たらない。不自然な波も見えないし、水の下にも動く影は見えない。
このまま上流へ向かうべきだろうか……? 津幡が時間を確認すると、既に新堂たちと別れてから五十分ほどが経っていた。一時間たったら警察に連絡をと言ったが、この状態で警察が来たら何もかも中途半端だ。
津幡がスマホを取り出そうとすると、タイミングよく着信音がなる。相手は新堂だった。
「もしもし……ビーバーは、逃げた……それを追っているところだ。何? 何だって? いそい様を鎮める……?!」
思いもよらない内容に津幡は驚きを隠せなかった。スマホに耳を傾けながら、津幡はいそい川の水面を睨み続けていた。
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