10ー1 散弾

 津幡は人気のない住宅街を抜け、大学までの道を急いだ。すれ違う人はおらず、散弾銃を抱えている津幡はほっと胸を撫でおろしていた。警官にでも見咎められれば計画はそこで終わりだ。

 そして大学の近くの大通りまで出ると、向かいの歩道から用水路を警戒しながら進んでいく。見る限りではビーバーの姿はない。しかし水の中にいるのなら道路の上からでは確認することが出来ないだろう。しかし用水路の脇に行って直接確認するだけの勇気は、津幡にはなかった。

 しかし、勇気がないという事を津幡は恥じていなかった。弱い動物は臆病で慎重なくらいがちょうどいい。散弾銃こそ持っているが、あのビーバーに対しては人間は無力だろう。襲われれば容易く命を奪われてしまう。見せるべきは勇気ではなく、冷静な判断力だ。例え眼前でビーバーが鋭い前歯を見せても、それに向かい冷静に銃を照準する心が必要なのだ。

 しばらく歩いていくと、いそい川と様子理路の接続している部分が見える。詰まっているゴミの様子が、時折走る車のヘッドライトに照らされ道路の向こう側からでも見えた。

「ここにビーバーがいるのか。覚悟しろよ、げっ歯類の化け物め」

 津幡は敵意を込めながらつぶやき、車がいないタイミングで道路を横断する。そして用水路の脇を通り、大学構内へと進入した。そしていそい川から二〇メートルほどの距離を取り、肩のケースから散弾銃を取り出す。荷物になるケースは地面に放り投げた。

「小次郎、破れたりってところか」

 ケースを捨てた自分が、鞘を捨てた剣豪のように思えた。負けるのは自分だろうか。いや、そんな事はない。これまで培ってきたクレー射撃の技術はこの日、この時の為にあったのだ。津幡はそう思い、散弾銃に弾を込めた。

 散弾銃は二連装で、連続して二発撃つことが出来る。逆に言えば二発撃てばまた弾を込める必要がある。できれば最初の二発だけで決着をつけたい……津幡はそう思いながら、いそい川に隣接した林を歩いていく。

 雨はやんでいたが、地面はぬかるみ頭上の木々からぽつぽつと雫が垂れていた。いそい川の水面と音に注意しながら、津幡は歩き続ける。

 しばらく歩いていくと学習資料棟が見えてきた。さっき命がけで逃げてきた場所だった。いつもと変わりのない様子……だがビーバーという異常な存在がその足元を脅かしている。津幡は注意深く周囲の状況を確認しながら進んでいく。

「僕が原因なんだ……僕が倒さなければ」

 津幡は自分を責めていた。自分がビーバーの剥製を欲しがったばかりに、こんな事になってしまっている。その真偽や因果関係は定かではないが、津幡はそう考えていた。そして自分は教育に携わるものだ。先輩として、講師として、人として、学生を導かねばならない。だというのに犠牲者を出してしまった。その事に忸怩たる思いがあった。いくら悔やんでも悔やみきれない……だからせめて、ビーバーを倒すことで償いをしたかった。

 そう……たとえ、自分が命を落とすことになっても……。

 学習資料棟に近づき、玄関まで続く木立の間を抜けて進んでいく。正面のいそい川だけでなく、背後の学習資料棟にも注意を配る。ビーバーはここのゴミを使ってダムを作っていた。人気のなくなった今、再びダムを作っているかもしれない。そうなれば学習資料棟の近くをうろついている可能性もあるのだ。津幡は目だけでなく耳にも注意を配り、ビーバーの気配を探る。だが何の音も聞こえない。ぽつぽつと水の下たる音が聞こえるだけだった。

 視覚もまた、同様だった。土日は経費削減の為、大学の構内の街灯などの照明は点灯しない。津幡の周囲はほぼ真っ暗であり、自分の足元さえ良く見えない。しかし照明を使えば、逆にビーバーが警戒して姿を見せないかも知れない。そう考え、津幡は暗いまま自分の視力を頼りにビーバーを探していた。

「どこにいるんだ、ビーバーめ……!」

 学習資料棟の前を通り抜け、津幡は第二駐車場の方へと進んでいく。その様子を見咎められれば完全に不審者だったが、夜の大学には誰もいない。学習資料棟の三階は電気をつけたままだったが、それ以外に光はなかった。

「そう言えば片岡君の車はライトが点いたままだと言っていたが……?」

 津幡が視線と一緒に銃口を駐車場の方へと向ける。車が一台止まっているのが見えたが、ライトはついていなかった。恐らくバッテリーが上がってしまったのだろう。

 そして津幡は新堂の言葉を思い出す。片岡は水に引きずり込まれ、そして食い千切られた首が投げつけられるように飛んできたといっていた。駐車場にはまだ片岡の首が転がっているはずだった。

「片岡君……無残な……」

 呟きながら前に進む。次第に足元が濡れ始め、水たまりになっていく。いそい川からあふれた水で駐車場は浅い池のようになっていた。津幡は防水のブーツを履いていたため、水を気にすることなく進んでいく。

 雨粒の無数の波紋が周囲に広がっていく。足を止め、ゆっくりと周囲の状況を確認する。四方に障害物はなく見通しがいいが、つまり、逃げ込めるような物陰はないという事だ。とても危険な状況に思えたが、それこそが津幡の狙いだった。これは釣りだった。自らの命をかけた、ビーバー釣り。

「首……見当たらないな」

 警戒しながら片岡の車の周辺に辿り着く。新堂の話ではこの近くに片岡が倒れていたというが、当然ながら今は何もない。首も落ちていない。

 周囲の水に沈んでいるのかとも思ったが、水たまりの水深はせいぜい五センチほどだ。沈んで隠れて見えなくなるほどではない。

 ビーバーはいない。片岡の首もない。片岡の首を持ってどこかに逃げて行ったのだろうか? いそい様の伝承では、結局どれだけ手足や首を集めても自分のものではないので、犠牲者はどんどん増えていくだけだったと言われている。

 片岡や二人の水死体の手足をどこかに持っていったのかもしれないが、それでも満足することはない。どれだけ繰り返しても、それは自分の手足ではないのだから。どこかにばらばらになって埋められた本物の手足を、永遠に取り戻すことはできない。いそい様には永遠に安らぎは訪れない。呪いの中に囚われたまま同じことを繰り返す。だから、奴は次の犠牲者を求めて現れるはずだ。

 水の滴る音が聞こえた。そして、不意に生臭い臭いが鼻に届く。津幡は目を見開き、静かに呼吸しながらゆっくりと銃を構えたまま振り返る。

 そこにいたのは、ビーバーだった。濡れた体で水たまりに座り込み、真っ黒な目で津幡を見ている。口から覗く鋭い前歯には血が絡んだかのような赤い筋が見えた。

 叫んだ。それはビーバーの鳴き声だった。濡れた絹を引き裂いたような音。甲高く、湿った音。思わず耳を塞ぎたくなるような声。津幡は怯みそうになる心を押さえ、冷静に銃の照準をビーバーに合わせた。引き金に力を込める。

 散弾が放たれた。水たまりが銃弾に叩かれ水を弾けさせる。だが、ビーバーの姿はない。

 ――上?! 津幡が銃口と共に上を向く。そこにはビーバーがいた。空中で両腕を広げ、前歯を剥き出し飛び掛かってくる。

「うわああ!」

 思わず叫びながら、津幡はもう一度撃った。しかし銃弾は外れビーバーはそのまま落下してくる。

 散弾は細かい弾丸が散らばる事で命中率を上げるものだが、距離が近すぎる場合は散らばりが不十分で普通の一発の弾丸とあまり変わらない。津幡の技術では、飛び掛かってくるビーバーを正確に撃ちぬくことは出来なかったのだ。

 ビーバーが落下し、そして津幡に前歯を向けて襲い掛かる。

「ぬうう!」

 津幡が左腕を前に出し、ビーバーの攻撃から体を守る。鋭い前歯が皮のコートを貫いて前腕に食い込んでいく。ビーバーは短い前足で津幡の腕を掴み、へし折らんばかりの力で握ってくる。

「うう、くそっ、離せ!」

 激痛に耐えながら津幡はビーバーと格闘する。濡れて重いビーバーの巨体に引きずり倒されそうになるが、なんとか踏ん張って振りほどこうとあがく。右手に散弾銃を掴み、銃床で激しくビーバーを殴りつけるが、ビーバーには大して効果がないようだった。

「うおおお!」

 殴りつけることに効果がないと見るや、津幡は銃口でビーバーの口をこじあけにかかった。銃口を口の隙間に押し込みこじっていく。ビーバーはバタバタと暴れるように動き、そして口を離した。

 足元に落下したビーバーを津幡は思い切り蹴飛ばした。ずんぐりと丸く重い体が二回転ほどして仰向けにひっくり返る。ビーバーは頭を振りながら起き上がり、そして再び津幡を睨んだ。

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