8ー1 誤算

 新堂が前を歩き、二人は階段を降りて行った。そして二階の踊り場で止まり、顔を覗かせて一階の様子を見た。もしビーバーがドアの前に戻ってきていれば見つかってしまう。

 注意深く新堂が階段の角から覗き込むと、外にビーバーの姿はなかった。しばらく様子を見ていたが、ビーバーが動き回っているような様子はなかった。

「……大丈夫みたいです。行きましょう」

「ああ、ここからは細心の注意を払わないと」

 二人は声を出さずに頷き合い、一歩ずつ静かに階段を下りて行った。階段を下りて右に曲がりロビーを抜ける。もう一度外の様子を見るが、ビーバーの姿はない。しかしドアについた生々しいひっかき傷と、残っている赤黒いしずくが新堂の恐怖を掻き立てた。また片岡の首の事を思い出してしまう。しかし萎えてしまいそうになる自分の心を奮い立たせ、新堂はゆっくりとロビーを進んでいった。

 ロビーを右に曲がると廊下が奥まで続いている。そして奥には物置がある。ゆっくりと逸る心を押さえながら二人は近づいていき、そして物置のドアの前で立ち止まる。

「開けますよ」

「ああ」

 意を決し新堂がドアノブに手をかける。ゆっくりとノブを回し、ドアを引く。部屋の中は真っ暗だったが、外から気付かれないように電気をつけるわけにはいかなかった。掃除用具や備品の段ボールが所狭しと置かれていて歩きにくいが、物音を立てるわけにはいかなかった。

「あっ」

 津幡の小さい声に思わず振り向くと、立てかけてあったモップが倒れてくる所だった。危ない!

 咄嗟に新堂が手を伸ばしモップを止める。どっと冷たい汗が噴き出る。そして新堂は津幡を睨む。

「ごめんごめん……」

 津幡は両手を合わせ謝る仕草をした。新堂の怒りは収まらなかったが、ここで言い合いをしてもしょうがない。今は先を急ぐしかない。

 物の隙間を歩きながらゆっくりと進んでいく。一〇メートルほどで一番奥に到達すると、そこには外に続く金属製のドアがあった。

「鍵はこれか……」

 暗くてよく見えなかったが、新堂は手探りでノブを触って鍵を見つける。中心に取っ手がありそれを回すタイプの鍵だった。

「開けます」

「ああ」

 新堂は指に力を入れ、ゆっくりとドアのカギを回す。錆びついているのかかなり硬いが、ゆっくりと回り始める。音と立てないように静かに回すと、カチャリと開錠される音がした。

 暗い部屋の中で新堂と津幡は顔を見合わせ、そしてドアを開く。蝶番が僅かに軋んだ音を立てて新堂は手を止める。そして細心の注意を払い、さらに静かにドアを開いていく。そして五〇センチほど開いたところでゆっくりと外に出ていった。津幡もそれに続く。

 足元の枝を踏んで小さな音が響く。新堂も津幡もゆっくりと動き、呼吸さえ止めながら歩いていく。林の向こうにいそい川が見える。もし見つかれば追いつかれる距離だった。このまま見つからずに北側へと林を抜け、大通りに出て安全な所まで行かなければならない。

 新堂は微かな希望を胸にスマホを取り出すが、やはり林の中では圏外だった。いそい川の方へ行けば五〇メートルほどで林の外に出るが、それはあまりにも危険な賭けだった。当初の予定通りに、二人は北側へと歩いていく。

 一歩一歩、慎重に。進む速度は遅いが、物音を立てては何もかもがぶち壊しだ。今は速度よりも静かであることを選ばねばならない。新堂と津幡は今までの人生で一番ゆっくりと歩いていた。

 二人は順調に進んでいたが、不意に音がした。木がコンクリートを打つような音が響いた。そして、ガサガサと何かが崩れる音。

 ぞっとして新堂は振り向く。後方を歩いていた津幡と目が合うが、津幡も後ろを向く。音はさっき通ってきた物置の方だった。

 まさか、さっき歩いてきたせいでどこかの荷物が崩れたのか? それは誤算だった。新堂は顔から血の気が引くのを感じた。

 だが驚くのはそれだけではなかった。ぎいと音がしてドアが開く。そして出てきたのは朝比奈の姿だった。

 何であいつがここに? 新堂は己の目を疑った。しかし、それは間違いなく朝比奈だった。しかも足音を気にしない様子でこちらに向かって駆けてくる。

 まさかビーバーが中に入り込んで逃げてきたのか? 新堂はいそい川に目を向ける。そこには何の変化もないようだったが……。

「あれは……?!」

 見える物に新堂は思わず声を発していた。いそい川の水面が盛り上がっている。そして左右に分かれ波立っていく。水の跳ねる音が聞こえる。そして――。

 自分の背骨を内側から削られるようなひどい鳴き声が聞こえた。間違いない。あのビーバーの鳴き声だ。見つかってしまった。

「新堂君、ごめんなさい! 私、やっぱり一人だと怖くて……!」

 朝比奈はビーバーから逃げてきたというわけではないようだ。単に一人で待っていることに耐えられなくて追いかけてきたようだが……恐らくその途中で物置のモップを倒し、物を崩し、盛大に音を立ててしまっている。最悪だった。

「くそ……! みんな、走れ! ビーバーに見つかった!」

 いそい川の水面の波は徐々に新堂たちの方へ近づいてきていた。まるでサメの背びれが近づいて来るかのような光景だった。

 津幡が先頭を切って走っていく。ラグビー部だったというのは伊達ではないらしく、確かに新堂よりも速かった。その後ろに新堂が続き、一番後ろを朝比奈が遅れ気味について来る。


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