8-2

 林を抜けて大通りまで行くにはあと四〇〇メートルはある。通学の自転車以外では運動する習慣のない新堂には結構きつい距離だった。それは朝比奈も同様で、林の中という足場の悪さもあって思うように前に進むことが出来なかった。

 津幡は革靴の割に快調に飛ばしていたが、しかし段々と失速してきた。ここに来て体力を使い果たしてきたらしい。新堂と朝比奈に追い越され、よたよたとへばった足取りで後を付いていく。

「津幡さん、急いで!」

 新堂は自分の息を切らしながら、津幡を叱咤する。津幡は返事する余裕もなく、ただがむしゃらに足を動かしていた。

 ビーバーはもう新堂たちと並走するように泳いでいた。だがいそい川までは数十メートルある。今すぐビーバーに襲われるという心配はないようだった。何とか逃げ切れそう……新堂にはそう思えた。

 激しく水面を叩くような音が響いた。新堂が視線を向けると、水が大きく弾けるように飛び散っていた。

 何だ? 一体何が起きた? 新堂が目を凝らすと、空中を移動する黒い影が見えた。それは丸い塊だった。水中から飛び出し、新堂たちに向かって飛び掛かってきている。不意に、獣臭が鼻をついた。

 新堂は確信した。間違いない。奴だ。奴が来た。

「……逃げろ、ビーバーがこっちに来たぞ!」

 暗くてはっきりとは見えないが、間違いのない。この状況下で他のものが水から飛び出してくるようなことはない。しかも、新堂たちに向かって。

「きゃああ!」

 朝比奈の叫びが聞こえた。丸い影は林の地面に湿った音と共に落下し、少し転がってから静止した。新堂はその姿を見ながら、疲れた体に鞭打って走り続ける。朝比奈と津幡もそれに続くが、その二〇メートル後方からビーバーが追いかけてくる。

 バタバタと地面を叩くようなせわしのない音が聞こえる。恐らくしっぽが地面を打つ音だろう。ビーバーは水の中で生活するが、陸上での生活が苦手というわけではない。四つ足の動物としてそれなりに速く走る。

 しかし、今追いかけてきているビーバーの動きは異常だった。人間が走る速度と同じくらいの速度で追いかけてきている。

 何なんだ、一体。あれは本当に剥製なのか? 恨みの力でよみがえり、追いかけてきているのか? 何もかもが訳が分からない。

 しかし、あれが危険なビーバーであることは間違いない。全力で逃げている新堂たちを執拗に追いかけてくる。そこには強い悪意、殺意がある。追いつかれればどうなるか……新堂は片岡の最期を思い出す。死にたくはなかった。こんな訳の分からない死に方は御免だった。

「うわああ! いやだ死にたくないぃ!」

 さっきまで疲れて速度の落ちていた津幡が再び加速する。一番後ろでビーバーの恐怖にさらされていたせいだろうか。残っていた体力をすべて出し尽くすように、朝比奈を追い抜いて先頭の新堂に迫っていく。

「頑張れ、朝比奈! もうすぐ大通りだ!」

 林を通り抜け、あと五〇メートルほどで大通りに出る。ビーバーの習性はよく分からないが、水場からそう遠くへは離れないだろう。そんな普通のビーバーの習性が悪霊に通用するのか分からなかったが、とにかく走って逃げるしかない。

 大通りまであと三〇、二〇、一〇メートル……大通りに出た! 新堂は歩道から素早く左右を確認すると、そのまま車道に出て横断していった。津幡と朝比奈もそれに続いていく。

 絹を裂くような鳴き声が響いた。新堂は車道を横断し、道路の向かいの歩道に出てそのまま隣接する駐車場に入っていく。もう走れない……新堂の脚はもつれ、転がるようにアスファルトの上に倒れ込んだ。

 道路を車が走っていく。ヘッドライトの光、車体と車体の隙間にビーバーが見えた。向こうの歩道の上で立ち止まり、じっとこっちを見ている。あれ以上追ってくることはないようだった。

「はあ……はあ……助かったのか……?」

 新堂は状態を起こして荒く息をつく。津幡と朝比奈も駐車場に倒れ込み、ぐったりと横たわる様にして座り込んでいた。今襲い掛かられたら逃げられない。一網打尽だ。しかし、ビーバーはじっとこちらを睨むだけで道路を横断する気はないようだった。

 再び鳴き声が響く。その声に新堂は身を竦ませるが、ビーバーは振り返り林の中に戻っていった。

「帰っていった……諦めたのか……はは、やった……!」

「助かった……助かったぞ!」

 津幡は大の字になり大きな声で笑い始めた。朝比奈は疲れ切った顔をしていたが、新堂と目が合うと安心したように笑みを見せた。

「よし、じゃあこれで警察に連絡すれば一件落着だ」

 新堂がスマホを取り出し電波状況を確認すると、電波が戻っていた。電話できる。

「いや、待て……!」

 一一〇番通報しようとした新堂を、津幡が鋭い視線で制する。

「何ですか? 早く警察に通報しなきゃ……また被害者が出ますよ!」

「被害者が出る……そう、正にそれだ。被害者を出してはいけない……警察に通報しては駄目だ!」

「何言ってるんですか? 警察でもなきゃあんな化け物止められないでしょ?! 自衛隊でも呼べって言うんですか?」

「そうじゃない。だが考えても見ろ……このまま警察に通報したとして、どうなる?」

「どうなるって……そりゃ警察が来て、あのビーバーを殺すか捕まえるかしてくれるでしょう。それの何が問題なんですか」

「なんて通報する? ビーバーが出た……そんな事を信じてくれると思うか?」

「それは……でも、片岡は現に死んでいる。殺されてるんですよ! 警察だってその事を話せば来てくれるはずです!」

「殺人ビーバーに人が殺された……そんな事を真に受けると思うかい? 来ることは来るだろうがね……来るのは何の警戒もしていない警察官だ。そんな状態でいそい川に近づいたらどうなる?」

 津幡の言葉に、新堂は想像する。通報を疑った警察官がやってくる。そして無防備にいそい川へ、ビーバーへと近づいていってしまう。

「……襲われる」

「そう。間違いなくね」

「じゃ、じゃあ、ちゃんと武装して来いとか、機動隊を連れてこいとか言えばいいじゃないですか!」

「殺人ビーバーなんて通報した時点で誰も信じてくれないよ。機動隊なんてくるわけがない」

 放っておけば……どうなる? 明日だって大学に来る学生はいるだろう。月曜になれば尚の事だ。あの狂暴なビーバーが無差別に襲い掛かる様子を想像し、新堂は総毛立つ。

「じゃあ……どうしろって言うんですか、津幡さん! このまま放っておけとでも言うんですか? 元はと言えばあなたがビーバーを注文したせい……あんたのせいなんですよ! このまま放っておくなんてあまりにも無責任だ!」

 新堂の言葉に津幡は表情を曇らせる。視線を落とし、力のない声で新堂が答える。

「……君の言うとおりだ。確証はないが、恐らくは僕のせいなんだ。そう、僕のせい……僕が何とかしなくちゃならない」

「何とかって……何する気ですか? まさかあのビーバーをやっつけるとか言い出すんじゃないでしょうね? 危険すぎます」

「危険なのは承知の上だ。しかし、警察やそのほかの人を危険にさらすわけにはいかない。ケリは僕がつける……」

 そう言うと、津幡は立ち上がった。

「僕に考えがある。ついてきてくれ」

 津幡の考えがろくなものだった試しはない。不安しかなかったが、反論する気力さえ今の新堂には残っていなかった。

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