7-1 脱出計画

 這う這うの体で新堂が三階にまで辿り着くと、ちょうどゼミ室から朝比奈が顔を覗かせているところだった。

「新堂君……どうしたの、その恰好! ずぶ濡れじゃない!」

「うう……朝比奈……片岡が……!」

 新堂は階段の手すりにもたれかかり、置いてある段ボールに腰かけた。置いてある本が服で濡れてしまうが、今の新堂にはどうでもいい事だった。

 水たまりの中に転がった片岡の生首を新堂は思い出した。どこか驚いたような表情で、片岡は事切れていた。突然すぎる、あまりにも無残な死に方だった。

「片岡君がどうかしたの? 何があったの?」

 朝比奈がハンドタオルを新堂に差し出す。新堂はそれを受け取ると、顔を押さえ嗚咽を漏らし始めた。

「ううっ……片岡が死んだ。ビーバーに殺された」

「えっ?! 片岡君が死んだ? どういうことなの?! ビーバー?」

 突然の言葉に朝比奈は動揺を隠せないようだった。無理もないと新堂は思った。自分で言っていても訳が分からない。だが間違いなく片岡は死んだ。それも、ビーバーに殺されたのだ。

「外に出たらヘッドライトをつけたままの片岡の車があった。近づいたら、片岡が倒れていたんだ。片腕が千切れていて……それでビーバーが来て、俺は片岡に突き飛ばされて助かった。でも代わりに、片岡は水の中に引きずり込まれて……殺された。首を、食い千切られて……」

「何……言ってるの……? 笑えないわよ、そんな冗談……」

 青い顔をして朝比奈が言う。新堂は涙を拭いながら言った。

「どうかしていると思うかもしれない。でも、間違いないんだ。外に化け物がいる……」

「化け物って……そんな?!」

「なんだなんだ……どうしたんだ?」

 津端が物置の方から姿を現した。そしてずぶぬれの新堂と動揺する朝比奈の様子に、ただ事ではない気配を感じ取る。

「……土砂降りで傘が壊れた?」

 津幡が間の抜けた事を聞いた。津端に充血した目を向け、新堂がもう一度同じことを繰り返す。

「片岡が殺されました。ビーバーの化け物に……」

「殺され……ええっ! ど、どういうことだ! か、片岡君が殺された?!」

 津端はズボンのポケットから慌ただしくスマホを取り出した。そして通報しようとしたが、スマホが圏外である事にすぐ気づいた。

「くそ、圏外じゃないか! と、とにかく私は外に行って警察を呼んでくる!」

 津幡は階段を下ろうと走っていくが、新堂はその腕を掴み止めた。

「おおっと! 危ないじゃないか新堂君!」

「外に出ちゃだめだ! 外にはビーバーの化け物がいるんです! 出て行ったら殺される……!」

 新堂の剣幕に津幡は気圧されたようになるが、思い直したように不敵な笑みを浮かべる。

「何? ビーバー……? ははーん、分かったぞ。僕を担ごうってんだな? そんな風に全身ずぶ濡れになってまで、僕をからかおうってんだな? 片岡君もグルだな? ビーバーの剥製を隠したのもやはり君たちだな?!」

 津端が新堂を指差しながら睨む。新堂は疲れ切った様子で首を横に振り、答えた。

「そうだったら良かったですよ……片岡が生きて……生きているんなら! 死んだんです、殺されたんですよ! あれがビーバーか何かは分からない! でもとにかく化け物がいるんです! 片岡を殺した化け物が……! 信じてください!」

 悲壮な新堂の声に津幡は固唾を飲む。鬼気迫る様子に、津幡は額の冷や汗を腕で拭う。

「……冗談じゃない……本当に、片岡君は……死んだのか?」

「そう言ってるでしょ……死んだ……殺されたんです。首を食い千切られて……」

「化け物がいる……ビーバーの化け物だって?」

 信じられないといった様子で津幡が繰り返す。新堂は頷き、答える。

「そうです。ちょうど津幡さんが買った剥製くらいの大きさです。七〇センチくらいで、全身に毛が生えていました。尖った前歯も見えた。尻尾は良く見えなかったけど……俺はすぐ近くで奴の顔を見ました。あれはビーバーだった……真っ黒な目で俺を見ていた……」

「七〇センチ……確かに剥製と同じくらいだな。ビーバーの前歯は鋭い……興奮したビーバーに噛まれて出血多量で亡くなったという事故もある。だが……首を食いちぎられただって? そんなことはありえない……」

「でも俺は見たんです! 片岡の首を……食い千切られた首を!」

 語気を強める新堂を、津幡は宥めるように手で制した。そしてゆっくりと言葉を続ける。

「分かった。片岡君はその化け物にやられたんだな。ビーバーかどうかはさておき」

「はい、そうです。奴はいそい川に片岡を引きずり込んで殺しました。そして次は俺を追いかけて資料棟の玄関にまで来ました。下に行けば分ります。ガラスのドアに奴に牙のひっかき傷がついている」

「ひっかき傷か……。もう一度聞くが、君にはビーバーに見えたんだな?」

「はい。茶色い毛の生えた、ずんぐりと丸い体。犬や猫なんかじゃありません。あれはビーバーです」

「確かにその特徴を聞く限りではそうだな。ワニとかじゃない。まさかサメがいるわけもないし」

「ええ、ワニなんかじゃありません。いくら何でもビーバーと見間違えませんよ」

「そりゃそうだな……だがここにいたんじゃ警察に通報も出来ない。圏外だからな。外に出るのが危険なのは分かったが……どうするか?」

 津端は新堂と朝比奈に視線を動かす。どうすればいいのか分からないようだったが、それは新堂も朝比奈も同じことだった。

「内線電話は? 総務課には繋がる……ひょっとしたらまだ誰かいるかも!」

 朝比奈が言うが、津幡は小さく首を横に振り答える。

「無駄だよ。こんな土曜日に、しかももうこんな時間だ。誰もいやしない。だが、確認する価値はあるかもな。朝比奈君、ちょっとかけてきてくれ」

「分かりました!」

 津端に言われ、朝比奈はゼミ室に戻っていく。新堂はその姿を目で追いながら、すっかり濡れてしまった朝比奈のハンドタオルで髪の毛を拭った。冷たかった水も体温でぬるくなっているが、その分体温が奪われていた。新堂にはもう立ち上がる気力さえなかった。

「ビーバーか……剥製と何か関係があるのか?」

 津端の言葉に、新堂はうんざりしたように答える。

「剥製はもうどうでもいいでしょう。俺が言っているのは生きているビーバーです」

「だが普通に考えて、ビーバーが人間を川に引きずり込むなんて考えられない。何か異常なことが起きている……それは間違いない」

「どっかの研究所で作られた危険なビーバーとか?」

「私にはこう思える。これは……ビーバーの悪霊の仕業ではないかと」

 津端の言葉に、新堂は少し間を置いて答えた。

「本気で言ってるんですか?」

「本気だよ、私は。突飛だと思うかもしれないが……考えても見てくれ、昨日から起きていたことを」

「昨日から起きていたこと?」

「そうだ。まず朝に交差点の所で水が溢れていた。ゴミが詰まっていた。そして死体もあった」

「そう……ですね」

 津幡の言わんとするところが新堂にも理解できた。しかし……それはあまりにも馬鹿げていた。

「それと君が見つけたいそい川と用水路の接続部分のゴミの詰まり……これはビーバーの作るダムだ。そう考えられる」

「剥製が逃げ出して、ダムを作ったんですか?」

「そうだ。資料棟の一階のゴミもなくなっていたと君は言っていたな? 恐らく、ビーバーはそこに置いてあったゴミを使ってダムを作ったんだ。自転車も沈んでいたし……それは恐らく間違いない。そして水死していた二人……その人たちは片岡君と同じようにビーバーに襲われたんだろう。知らずに近づいて攻撃されたのか、それともゴミと一緒にダムの素材にするためだったのかは分からないが……ビーバーにやられたんだ」

「……正気ですか、津幡さん?」

 呆れ果てたといった様子で新堂が呟く。だが津幡は気にする様子もなく答える。

「僕は君を信じた。君も少しは僕を信じるべきだ。今は異常なことが起きている……恐らく僕たちの理解を遥かに超えるような出来事がね。状況を正確に理解しなければ、解決することはできない。フィールドワークと一緒だよ。さもなければ、ここから逃げ出すことさえできない」

「異常なことが起きている……それは、そうですが……」

 回転の鈍くなった頭で、新堂はもう一度考える。事実。それは片岡が死んだという事。そして川の中に化け物がいるという事。普通に考えて、あんな危険な生き物がいることはない。そして世界中のどこを探しても、あの大きさで人を殺し川に引きずり込むような生物はいない。それこそ河童のような妖怪、化け物の類だ。

 姿を消した剥製が何らかの理由で再び動き出し、人を襲うようになった。安いホラー映画のような設定だ。しかし、あり得ない。剥製の中身は肉も骨もくりぬいて空っぽになっている。いや、仮に詰まっていたとしても、保存のために乾燥されミイラのようになっているだろう。

 事故死したと思われた野生動物が実は生きていて数時間後に動き出す……という事例は新堂も聞いた事があった。医療が未熟な時代では、人間でも同じようなことがあったくらいだ。

 だがそれとは完全に次元の違う話だ。剥製が動き出す……一体何で動いているというのだろうか。筋繊維など一本も残っていないはずなのに。もし動くとすれば、それこそ悪霊の、人間には理解できない超常のエネルギーだ。

 だが確かに、津幡の言うように異常なことが起きている。津幡の思考は普通ではないが、今はその方が真実に近づけるのかもしれない。新堂は冷えのせいか頭の痛みを感じ始めていたが、それをこらえ思考を巡らせる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る