6-3

 新堂は呆然と雨の中で立ちすくんでいた。雨は変わらず降り続け、その音だけが周囲にある。新堂の鼻の奥にはまだ強い獣臭が残っているようだった。だが自分が見たものが本当のことだったのか、新堂には自信がなかった。まるで悪い夢を見ているような……そんな感覚に捉われる。

「片岡は……?」

 足を踏み出そうとする。容易に動かすことのできない足は、震え地面に根が生えたように動かない。太ももを強く握り、そして無理矢理に一歩踏み出す。ガタガタと震えながら、新堂はヘッドライトが付いたままの片岡の車に再び近づこうとする。

 そこにまだ片岡が倒れているのかもしれない。早く救急車を呼んでやらないと。先ほど見た恐ろしいビーバーの姿を脳裏から振り払い、新堂は縋る様に前に進んでいく。

 再び水の弾ける音がした。右の方に顔を向けると、空中に向かって大きな水柱が立っていた。

 新堂は驚き足を止め、そして水の行方に目を凝らした。宙に上る水は細く散りながら、新堂の方へと向かってくる。そして水の中から何かが飛び出したように見えた。

 塊が水を叩いた。新堂の一メートルほど前に落下した何かが派手に水しぶきを上げる。新堂の体はもう濡れ切っていたが、再び体にかかった水に肌を刺すような冷たさを感じた。

「なん……だ……?」

 見てはいけない。どこかでそう感じていた。しかし、落下してきたその丸い何かから目を逸らすことはできなかった。コロリと水の中でそれが転がる。見えたのは片岡の顔。首を食い千切られた片岡の頭部だった。

「ひぃ……」

 喉の奥で呼吸がひきつり音を立てた。知らず、息を吸う。

「――うわああ! ああああ!」

 片岡が、死んだ。殺された。新堂は悲しみよりも恐怖に包まれ、再び背を向けて走り出した。その瞬間、またぞっとするような甲高い叫びが聞こえた。

 視線を一瞬だけ左側に、いそい川の方へ向ける。すると駐車場にたまった水の上を、さっきのビーバーが泳いでいた。向かう先は、間違いなく新堂のいる方向だった。

「うあああ! 誰か、誰か助けてくれ!」

 自分の口から叫び声が出ていることに新堂は気付いていなかった。無意識の恐怖が助けを呼んだが、しかし夜の大学には誰もいない。学習資料棟に津幡と朝比奈がいるだけだ。

 救急車を、警察を呼ばなければ。脳裏にそんな思考がよぎるが、それは恐怖に覆い潰されただ逃げるために走る事しかできなかった。駐車場を抜けて林が近づいてくる。足元の水も無くなり地面が見える。

 ここまでは奴も追ってこない……漠然と新堂は思い、しかし逃げ足を緩めることはなかった。普段運動をしない体が酸素を求めてあえぐ。

 学習資料棟の玄関が近づく。目の前の木立の角を曲がれば、もうすぐだ。新堂はかすかに安堵し、速度をゆるめ荒い息をつきながら、木の幹に手をかけて振り返った。

 そこにはビーバーがいた。バタバタと短い脚を動かし、地を蹴って近づいてくる。動物園であればそれはかわいげのある光景だったかもしれない。しかし妄執に取り付かれたかのように走り寄るビーバーに、新堂は恐怖しか感じなかった。片岡は死んだ……このビーバーに首を食いちぎられたのだ。何故ビーバーがここにいるのか理解などできなかったが、とにかくすぐそこにいるのだ。それは恐怖を掻き立てる事実でしかなかった。

 まだ距離に余裕はある。新堂は走るビーバーに戦慄しながら再び走り出した。すぐそこに玄関の光が見える。いつもの道を通り抜け、そしてドア脇の端末に暗証番号をいれる。六桁の数字を入れるのがもどかしい。開錠ボタンを押すと、いつものように間延びした機械音が響いてロックが解除される。

「早く、早く開けよ!」

 自動ドアが新堂を認識しゆっくりと開く。その速度はいつもと変わりないはずだったが、今の新堂にはカタツムリのようにゆっくりに見えた。開いた隙間に手を差し込み、強引に力で左右にこじ開ける。

 ぎしぎしとドアが軋みながら開いていく。再び振り返ると、ビーバーは木立の角を曲がったところだった。二〇メートルほどの距離しかなかった。

 ビーバーの叫びが聞こえた。狂気と残酷な黒い意志を感じさせる声。新堂は震えながら、なんとか開いたドアに体をねじ込んで中に入る。それに少し遅れてドアが全開になる。新堂は尻をついたまま床を蹴って後ろに下がる。

 ビーバーの姿が見える。そしてガラスの戸が閉まり、ビーバーの体がドアに激しくぶつかる。

 ガツンと前歯がガラスの戸を叩く。ビーバーは怒り狂ったように何度も前歯でガラスの戸を叩く。ガラスの表面にひっかき傷がつき、このままでは割れてしまうのも時間の問題に見えた。

 だが幸いにもドアは開かなかった。一旦閉じると、再び暗証番号を入れなければ開くことはない。平時なら面倒だと思う仕様だったが、この時ばかりは新堂はそれに感謝していた。

 ビーバーは苛立たし気に前足で地面を叩く。明らかに新堂を睨みつけ、そして再び叫ぶように吠えた。鼓膜を直接引き裂かれるような震えがガラス戸越しに響いてくる。新堂は蛇に睨まれた蛙のように、それ以上逃げることも出来ずに倒れたまま震えていた。

 ビーバーはしばらく新堂を睨んでいたが、しかし急に後ろを向いて再び走っていった。新堂に興味を失ったのか、それとも入れないと悟り諦めたのか……。新堂は自分が助かったのだと分かり、体から急に力が抜け床に大の字に倒れ込んだ。

「ビーバー……なんなんだ? 片岡が死んだ……奴に殺された……?!」

 雨と水たまりの飛沫で全身がぐっしょりと濡れていた。今頃になって寒さが身に染みてくる。新堂は体を起こし、冷え切った自分の体を抱きしめるように腕を組んだ。

「どうする……? どうすればいいんだ? 警察に連絡か……?」

 殺人ビーバーが大学で暴れています。荒唐無稽な通報にしかならない。たとえそれが掛け値なしの真実だとしても。だがそれでも、警察に連絡しなければならない。片岡が死んだ、殺されたのだ。首は駐車場に転がり、体はまだ水の中に沈んだままに違いない。このままにしてはおけない。

 ズボンのポケットからスマホを取り出すが、しかし圏外のままだった。雨はまだ降り続いている……電波の状況が改善する見込みはない。さっき駐車場に出た時であれば繋がったかもしれないが……今となっては遅い。

 電話を掛けるなら、もう一度外に出て繋がる所に行くしかない。だが外に出れば再びビーバーに襲われる可能性がある。いや、間違いなく襲われるだろう。あのビーバーは片岡を殺し新堂をも狙った。人間に対して明らかな敵意がある。

 だがビーバーは本来草食動物だ。天敵に襲われれば戦う事もあるだろうが、だが人間の首を食いちぎるようなことはないだろう。そんな話、聞いた事がない。

 あのビーバーはおかしい。異常だ。何故大学にいるのか。なぜ人を襲うのか。なぜあんなにも狂暴で凶悪なのか。新堂の体の底から震えが出てくる。それは寒さのせいばかりではなかった。

「とにかく……なんとかしないと……!」

 ビーバーが遠く去ったのを確認し、新堂は恐る恐る外の様子を確かめる。ドアの脇に立って顔だけ覗かせ、玄関の周囲を確認するがビーバーの姿はない。きっと川に戻ったのだろう。

 今の隙に、もう一度外に出て警察に通報するか? その考えが頭をよぎるが、やはり危険すぎるように思われた。失敗したら……自分も片岡のように殺されてしまうだろう。首を食いちぎられるなんて想像したくもない。もしくは水に引き込まれて溺死だ。どっちもろくな死に方じゃない。

 片岡は、どっちだったんだろうか。ふとそんな事を考えた。水に引きずり込まれて、溺れてから首を食いちぎられたのだろうか。それとも溺れる前に食い千切られたのか。どちらが楽だったろうか。そんな事を考えてしまう。

「くそ……くそ! 何だってんだよ!」

 あり得ない事だった。ビーバーに襲われる。そして友人が殺される。全く悪い冗談だった。白昼夢でも見ているような気分だった。だが今見たのは幻なんかじゃない。夢ではない。玄関のガラス戸に残る傷が何よりの証拠だ。ビーバーの前歯で削られて傷が残っている。

「……二人に、知らせないと」

 三階には朝比奈と津幡がいる。とにかく、片岡が死んだことを伝えなければ。新堂はそう思い、ゆっくりと階段の方へ向かう。体が冷え切っていた。

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