6-2

「なんだこれ、水が……」

 足元の水たまりに新堂は眉を顰める。第二駐車場のアスファルトはそこらじゅうが傷んでおり水たまりも多いが、今足元に見えるのは一面の水たまり……いや、湛水しているといっていい状況だった。

 靴の底の厚さより水がたまっているらしく、じんわりと靴の中に水がしみ込んできた。思わず数歩後退するが、時すでに遅し。靴の中は濡れてしまっていた。

「何でこんなに水が……」

 新堂はいそい川と用水路の接続箇所にゴミが詰まっていたことを思い出した。ひょっとして……ゴミの詰まりでいそい川の水位が上がり、その水が駐車場にまで広がっているのか?

 周囲は既に暗く、いそい川の様子は見えない。しかし一面が水浸しのように見える。溢れた水が新堂の足元にまで達しているようだった。

「くそ……長靴なんて持ってないぞ?」

 これ以上進めば靴はいよいよびしょ濡れになるだろう。しかしここまで来て戻るという選択肢はなかった。新堂は濡れるのを諦めて湛水の中を進んでいく。

「やっぱ……片岡の車か?」

 近づくにつれ車の形が見えてくる。片岡の軽自動車のように見える。色も黄色っぽい。

 二〇メートル程の距離にまで近づき目を凝らす。片岡が中にいるのか? それを確認しようとしたが、どうも運転席は無人のようだった。助手席も無人だ。

 後部座席で寝そべっているとか……? 新堂は一瞬考えるが、とてもそんな事が出来るほどのスペースはない。何度か乗ったことがあるので覚えている。

「一体どこに行ったんだ……?」

 周囲を見回しながら車に近づいていく。片岡がその辺にいるようには見えなかった。どこにも姿はない。

「おかしいな……」

 呟きながら、ふと足元に違和感を覚えた。何かがある。

 駐車場に照明はない。今は車のヘッドライトがついているが、それでも周囲のほとんどは曇天のせいもあってすっかり真っ暗だ。自分の足元、履いている靴さえよく見えない。

 そんな闇の中に、何か大きな塊があるのが見えた。

 岩? 最初に思ったのはそんなことだった。しかし駐車場にごろんと大きな岩が転がっているはずがない。まさか、ビーバーの剥製? そう思い更に近づいて闇に目を凝らすと、それは……人の形をした何かだった。

「なん……だ……?」

 ぞわりと背筋が震えた。闇の中に嫌な予感があった。しかし、心とは裏腹に新堂の体はその塊に近づいていく。

 いや、それが何なのかすでに新堂には分かっていたのだ。だが否定したい心が、そうではないと信じたい心が、それが何なのかを確かめさせようとしていた。

「片岡……」

 駐車場に転がっていたのは、片岡だった。仰向けになり、薄目を開けて倒れている。そして……右腕が肩口から無くなっていた。着ていたシャツもちぎれていて、布地がほつれていた。

 雨の音がする。傘を打つバタバタという音が新堂の耳にやけに大きく響いていた。ぐるぐるとめまいのような感覚に襲われる。

「……お、おい……片岡! 片岡!」

 新堂は我に返り、屈みこんで片岡の肩をさすって呼びかける。何があった? 何で腕がなくなっている? 何で倒れている? 片岡は……生きているのか?

 最悪の事態を考えながら、新堂は片岡の肩をゆすり呼びかけ続けた。新堂の手が触れた片岡の体には、ほとんど温もりを感じなかった。まるで冷たく滑らかな石の塊のように思えた。

「う……ぁ……」

「片岡! おい、片岡! 大丈夫か!」

 新堂は傘を放り出し、喋ろうとしている片岡の口元に耳を近づける。弱い呼吸の音が聞こえる。喘鳴に交じりか細い声が聞こえる。

「何があった……おい、片岡!」

 新堂が片岡に必死で呼びかける。片岡が何かを喋ろうとしている……聞き逃すまいと新堂は耳を澄ませる。

「ぅ……げ、ろ……」

 力のない声で片岡が言う。新堂は片岡の首に手を当てて脈を探る。しかし脈があるのかどうかよくわからなかった。だが体がかなり冷えているのは間違いなかった。気温は一〇度くらいだろう。降り注ぐ雨はなお冷たい。片岡が衰弱しているのは明らかだ。

「片岡! 待ってろ、今救急車を呼ぶ!」

 新堂はポケットからスマホを取り出す。電波強度が復活して通話できる状態だった。しかし、咄嗟に何番にかければいいのか分からなくなった。何番……何番だ?! 新堂は混乱する。

 倒れたままの片岡の左腕がゆっくりと持ち上がる。そしてまた何かを言おうとしている。新堂は雨の中で片岡の声に集中する。

「にげろ」

 確かにそう聞こえた。そして、片岡の左腕が弱々しく動き、新堂の体を押す。それはとても弱々しい動きに見えた。しかし驚くほどの力が込められていた。突然の事に、新堂は後ろ側に姿勢を崩す。

 途端に、水が弾けた。新堂の体に大量の水が浴びせられる。そして鼻の奥にむせかえるような臭いが溢れた。新堂は目の前に獣が現れたかのような感覚に襲われた。

 目の前を何かが通り抜けた。暗闇の中、滴る水飛沫の向こうに白いものが見えた。それは……前歯だった。黒い目がある。毛に包まれた顔が見える。それは、ビーバーの姿に見えた。

 新堂の眼前でガツンと前歯が噛み合わされる。片岡の体が丸い体に踏みつけにされている。もし片岡が新堂の体を押していなければ、ビーバーの前歯は新堂に届いていたかもしれない。

「何……何なんだ……?!」

 突然の状況に新堂は混乱を禁じえなかった。倒れている片岡。そして突然現れたビーバー。新堂の理解の範疇を超える出来事だった。

 だが、それはどちらも現実だった。片岡は腕が千切れ死にかけている。その片岡の上に、ずんぐりと丸い、獰猛な気配を放つビーバーが乗っかっている。ガラス玉のような黒い目が、闇の中でうっすらと遠くの照明の光を反射していた。

 低く太い鳴き声が響く。ビーバーの開かれた口から、まるで暗い水底から響くような妖しい声がこぼれる。風が吹いた。言い知れぬ生臭さを含んだ湿った風だった。

「うわああ!」

 新堂は身も世もなく叫んだ。それは恐怖だった。触れてはいけない何か恐ろしいものが目の前にあった。それはビーバーであってビーバーではない。尋常の存在ではない。理屈を超えた部分にある原始的な恐怖を刺激する、存在してはいけない何かだった。

 新堂は周囲の水たまりに転がりながら、這うようにして立ち上がり走った。片岡の事さえ忘れ、新堂は学習資料棟の光に向かって必死で走った。

 絹を裂くような声が響いた。それが何なのか、新堂には分かっていた。奴の声だ。振り返ってはいけない。だが、新堂は恐怖に駆られ、そして片岡のことを思い出し、振り返った。

 水が二つに裂け、ビーバーが滑るように動いていた。左右にうねるように体を動かし、水たまりの水を押しのけるようにして片岡の周囲を回っている。まるで鮫のようだった。水しぶきがヘッドライトで照らされ、微かな光の中に片岡の姿が見えた。

「片岡っ!」

 新堂は叫んだ。何を伝えようとしたのか、自分でも分からなかった。逃げろといいたかったのか。誰か助けてくれと叫んだのかもしれない。夜のとばりの降りた駐車場で、声は闇に吸い込まれていく。

 ビーバーの影が止まり、そして片岡の影と重なる。そして、影は動いた。二つ一緒に。

「片岡っ!」

 新堂はもう一度叫んだ。しかし、その声はもう届かないという不吉な予感があった。足を前に踏み出すこともできなかった。助けに行くだけの勇気はなかった。離れた位置から、絶望しながらただ見ていることしかできなかった。

 ビーバーの作る水しぶきが尾を引きながら動いていく。片岡の体は何の抵抗もなく運ばれていく。そしてビーバーはいそい川のへりに達すると、一度身を起こし、片岡の体を川に放り込んで自らも水の中に消えていった。

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