5 消えたビーバー
午後五時になり日が沈み始める。冬に比べれば日も長くはなったが、暗くなるのは早い。曇り空は光を失い、辺りは闇に包まれ始める。遠くの家に光が灯り始め、カラスが寝床へと帰っていく。
新堂はレポートのチェックを終え、とりあえず残っている課題を片付けた。これで来週からの講義にも胸を張って出られる。しかし、それで家に帰ろうという気分には、何故かならなかった。すっきりしないものが胸の中に残っていたのだ。呑み込めない小骨のように引っかかっていた。
ゴミの詰まり……片岡には再三窘められたが、それがまだ引っかかっていた。あのゴミは一体どこからやってきたのか? どうやってあそこに流れ着いたのか? その謎を明らかにしたところで何が分かるというわけではない。しかし何か得体の知れない事が起きているような……そんな不安を払拭できるような気がしていた。
そう……新堂は不安だった。その事をようやく自覚し始めていた。片岡の言うように人が死んだという事で敏感に反応してしまっているだけなのかもしれないが、新堂は言い知れぬ不安を感じていたのだ。
いそい川の水位。用水路の詰まり。水死体。関連があるようなないような出来事。それらに違和感を覚えていたが、言葉にすることはできず、それだけに簡単に消すことはできなかった。
何か大きな危険が迫っているような……そんな本能的な恐怖にも似た物が新堂の心で大きくなり始めていた。
それを言えばまた片岡からは叱責されるだけだろう。
片岡はゴシップの類が嫌いだった。マスコミが無暗に調べ明らかにする些末な出来事……視聴率を稼ぐために手段を選ばないようなその態度を嫌っていた。人が死んだという今回の件について、ゴミがどうのと言い募ることが片岡には無責任なマスコミのやり方と同じように感じられるのだろう。不謹慎というわけだ。
それは分からないではない。しかし、新堂のゴミに対する引っ掛かりは、単純な好奇心によるものではない。深く曖昧な部分にある原初的な恐怖……それを明らかにし、恐れを取り除いて対峙する……その為に必要なことだと思えていた。
「あーあ……腹が減ったな」
不意に片岡が呟いた。しばらく誰も何もしゃべっておらず、まるで無言の行のような時間が続いていた。その重苦しい空気を入れ替えるかのように、片岡はいつものように軽い調子で言った。
「コンビニ行ってくるわ。何か買ってこようか?」
「うん、そうだね……お腹空いてきちゃった。おにぎり買ってきてよ、梅干し。それとコーヒー」
朝比奈が言い、新堂も少し考えてから答える。
「俺サンドイッチ……卵ね。あと何か……チョコレート系のお菓子」
「ふむ……津幡さんがいれば金をたかる所なんだが……まだ帰ってこないな……ん?」
片岡がゼミ室の外を向いて様子を窺う。何かと思い新堂も外を見るが、かすかに足音が聞こえるようだった。
「噂をすれば影だな。津幡さんが戻ってきたらしい」
「みたいだな」
足音は次第に大きくなり、津幡がゼミ室に顔を出した。だがその顔に新堂たちはぎょっとする。深刻そうな表情で、助けを求めるように津幡が言う。
「大変だ……ビーバーが無いんだ……!」
「何言ってるんですか? それはもう聞きましたよ。海に落ちて藻屑と消えたんでしょ?」
片岡がまた、少し険のある言い方で答えた。しかし津幡は首を横に振る。
「違う。そっちのビーバーじゃない……昨日届いた雄のビーバーがないんだ……そこに、置いておいたはずなのに……」
「昨日の奴……それって……津幡さんがどこかに片付けたんじゃ?」
新堂は朝に見た様子を思い出す。確か昨日置いてあった所には何もなくなっていて、それでてっきり片付けたものだと思ったのだ。
「昨日そこの物置の所に置いておいた。しかしさっき見たら姿が消えている……台座しか残っていないんだ!」
「記憶違いじゃないんですか? 俺達……誰も触ってない……よな?」
片岡が確認するように言うと、新堂も朝比奈も頷く。
「私、昨日からビーバーを見てません。知らないです」
「でも台座は残ってるって……? どういうことですか?」
新堂が立ち上がり、ゼミ室を出て物置の方へ歩いていく。津幡も新堂に並んで歩いていく。
「言葉通りだよ。ビーバーの剥製は台座に金具で固定されていた。しかしそれが外れていて、台座だけが残っている。自分の目で見てくれ!」
物置の前につくと、津幡が指をさした。昨日ビーバーがあった場所……そこには何もない。いや、新堂は改めて見て、板切れが置いてある事に気付いた。それが台座のようだった。
「これか……」
新堂は台座を手に取って確認してみる。確かに昨日見た時はこの台座に固定されていた気がする。見ると、四か所ほどに釘が打ち込まれワイヤーのものが引っかかっていた。そのワイヤーは、どうも無理矢理に力で千切ったようになっていた。
「確かに台座だけ残っている……ビーバーはどこに?」
「だから、それを探してるんだよ! ああもう! 二〇万円! 二〇万円したんだぞ! 片割れは海に落ちるは、届いた奴もなくなるは、一体どうなってるんだ!」
顔を赤くして喚いている津幡を無視し、新堂は台座をもう一度確認する。だがいくら見ても、特に何かの手掛かりがあるようには見えなかった。
台座を前に困惑している俺達の後ろを片岡が歩いて階段の方へ行く。
「コンビニ行ってくるぜ。途中にビーバーが落ちてたら拾ってくるよ」
「ああ、頼むよ!」
片岡の皮肉に津幡は素直に答えた。片岡はやれやれと言った風にかぶりを振りながら階段を下りていった。
新堂は視線を台座に戻し、再び考える。
「ビーバーを……誰かが持っていった……?」
「誰かって誰だい? この資料棟を使ってるのはほとんど僕らだけだ。ビーバーが届いたのを知ってたのも僕らだけ! よその誰かが入り込んだところなんて見たかい?」
新堂は記憶をたどってみるが、片岡、朝比奈、津幡以外の姿を見てはいない。
「いや……見てないです。いても気付かなかったかも」
「じゃあやっぱり……君たちのうちの誰かって事?」
じろりと津幡が振動を見る。疑わしそうなまなざしだったが、新堂はそれを一蹴する。
「馬鹿なこと言わないでくださいよ! 人の持ち物を勝手にどっかに持っていくとか隠すとか、そんなことするわけないでしょ! 子供じゃないんですよ!」
「ううむ……しかしそうなると一体誰がビーバーを……」
津端は憤懣やるかたない様子で虚空を睨んでいた。二〇万円のビーバー……一体誰が持ち去ったのだろうか。
新堂は犯人がビーバーを持ち去った理由を考える。一番考えられるのは、売り払うために盗むことだ。
「ビーバーの剥製……仮に売ったらいくらになります?」
「ええ? そりゃあ……どのくらいだろうな。価格の半分くらいか? 一〇万円ってところじゃないか」
「誰かが一〇万円欲しさに盗んだ?」
「その可能性が一番高いかも知れない。しかし、おかしい」
「何がですか?」
「台座に固定された標本をわざわざ千切って持っていく馬鹿がどこにいる? 台座に固定されていなければ自立しない。無理に千切ったら傷がついているかもしれない。標本としての価値は下がるだけだ」
「確かにそうですね……何が目的なんだ?」
「あとは……嫌がらせか」
「津幡さんへのですか?」
「そうだろうさ! きっと僕のビーバー河童仮説を妬んだ誰かの仕業に違いない。僕が論文を書くのを邪魔するために……なんて卑劣な奴だ!」
新堂は馬鹿かこいつと思いながら、他の可能性を考えてみた。ビーバー好きの誰かが盗んでいった。ゴミと間違えて誰かが持っていった。備品と間違えて誰かが片付けた。……どれもいまいちピンとこない。
誰か。誰か。誰か。誰かがやったと言うのは簡単だが、一体誰がこの学習資料棟に来るというのだろうか。しかも土曜日に。しかも津幡に嫌がらせをするというしょうもない目的のために。
それに台座を残していった理由が思いつかなかった。津幡の言うように価値の下がることまでして台座を残していったのは何故なのか。何か意味がある事なのだろうか。津幡への何かの意趣返しが考えられるが……しかし津幡自身は思い当たる節はないようだ。新堂は頭を捻る。
ビーバーの剥製が勝手にどこかにいくわけはない。誰かが……誰かがやったことには違いないのだ。一瞬片岡の事が頭をよぎるが、いくら普段から津幡に苛ついているとはいってもここまでの事をすることはないだろう。これは悪戯を超えている。犯罪の域だ。
ビーバーの剥製は昨日津幡が帰った時点ではここにあった。それから今日の朝、恐らく片岡が来た頃には無くなっていた。つまり学習棟が施錠されていた間に盗まれたのだ。
だとすると部外者であることは考えにくい。玄関のロックを解除する暗証番号は俺達一部の学生や津幡のような大学関係者しか知らない。番号は毎年変更しているので卒業生が昔の番号で入ったという事もない。
ひょっとするとプロの泥棒なら入ることはできるのかもしれないが……それで盗んだのがビーバーの剥製というのはちょっと考えにくい。台座を残す理由もない。
「いそい川のゴミと言いビーバーと言い……一体どうなってるんだ、うちの大学は」
訳の分からない現象が起きている。一体何だって言うんだ。人まで死んでいる……何か関連がある事なのか? ビーバー、ごみ、水死体。全く訳が分からない。新堂は頭がおかしくなりそうだった。
「確かに変なことが続くな……そう言えば今年厄年だったかも知れない」
津端の発言にうんざりしながら、新堂の口から嫌味のように言葉がついて出た。
「……じゃあ全部津幡さんのせいですか」
「そうかも……いや、そんな事はない! 俺の活躍を妬むアンチの仕業に違いない! ことによったら水路のゴミだってそうかも知れないぞ! おかげで今日は警察やら市役所の相手やらで全然仕事にならなかった!」
「仕事の邪魔か……それはあるかも知れないけど……それにしちゃ手が込み過ぎてるような」
「どうせ暇を持て余したろくでもない連中の仕業に違いない! 単独犯じゃないかも知れないぞ! 何人もの馬鹿者どもが手の込んだ悪戯を……いや、犯罪を起こしたんだ!」
「単独犯じゃない……そうか。複数人の可能性もあるんだな」
数人がかりでずんぐりとしたビーバーを運び、いそい川にゴミを投げ込んでいく所を想像した。何とも間抜けだ。そんな馬鹿なことに関わる連中が同じ大学にいるのかもしれないと思うとぞっとした。馬鹿なのか。
「偏執的な思考の持ち主だ! 目的のためには労力をいとわない異常な心理……病的だよ!」
「ううん、色んな事が起こりすぎて訳が分からなくなってきた……」
「とにかくビーバーはここにはない。僕は構内をもう少し探してみる。どこかに隠してあるかも知れない……くそ、僕の論文の邪魔はさせないぞ!」
鼻息も荒く腕まくりしながら津幡は荒々しい足取りで階段を下りて行った。残された新堂はどっと疲れを感じ、心の底からため息をついた。レポートを仕上げに来ただけなのに、一体なんて一日だろう。
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