3ー1 閉じた水路
どんよりとした天気は翌日も変わらずだった。数時間雨が降り、数時間の晴れ間が続く。そんな天気を繰り返していた。
土曜日で講義は無いが、新堂は平日と同じように大学に来ていた。時間はもうすぐお昼。リュックの中には昨日途中まで仕上げたレポートが入っていて、それをゼミ室で仕上げるつもりだった。
大学の寮の自室でやることももちろんできるのだが、休日ともなるとそこかしこで笑い声や奇声が聞こえてくる。時には遊びに行こうなどと同級生が押しかけてくることもあって、ゆっくりと腰を据えて勉強するにはあまり適さない環境だった。
そういう猥雑さが嫌いなわけではないが、今日はそう言う気分ではなかった。そういう時に逃げ込むのがゼミ室で、図書館ほど気兼ねせずに、飲んだり食べたりしながら集中できる場所はありがたかった。
恐らく片岡もいるだろう。日によっては朝比奈もいることがある。準教授の津幡がいることは稀だったが、いない方がうっとうしくなくてありがたい。
時にはレポートの事で指導を仰ぎたくなることもあるが、津幡の教え方は感覚的でいまいち分かりにくい。さんざん聞いた挙句に朝比奈が要約してくれてそれで理解できるという事が何度かあった。それなら津幡には聞かず、最初から朝比奈に聞けばいい。
津幡の存在価値と言えば、コンビニなどへ買い出しする時に多めに金を出してくれる時くらいのものだ。それ以外の時は、ちょっと変なおじさんという感じでしかなかった。
いつものように総合研究棟の脇を抜けて、いそい川にかかる橋を渡る。老朽化の進んだ橋でひびも多く欄干も欠けている所が多い。台風や地震などが来るたびに崩れたんじゃないかと噂されるが、掛けられてから数十年、今の所は強度を保っている。ガタガタの舗装を乗り越えて学習資料棟に近づいていく。
いくつかの水たまりをよけて進み、いつもの場所に自転車を停める。休日は玄関の自動ドアもロックされているが、利用する一部の学生は暗証番号を入れて中に入る事が出来る。
ドア脇の端末に番号を入れてロックを解除すると、新堂はロビーに新しい足跡があるのを確認した。泥水がまだ滲んでいる。やはり誰か、少なくとも片岡は来ているようだった。
「まったく、休日なのに真面目なもんだよ」
自分と片岡に対する皮肉のような言葉を呟きながら、新堂は廊下を抜け階段を上がっていく。三階まで上がり、ふと物置の方を見る。すると昨日は置いてあったビーバーの剥製が消えていた。
「あれ……津幡さんここに飾っておくって言ってたのに、片付けたのかな? まあいっか……」
昨日最後に帰ったのは津幡だった。みんなが帰った後にどこかに片付けたのだろう。新堂はそう思い、ゼミ室に入っていった。
「お、今日も来たな。重役出勤ご苦労」
ゼミ室に入ってきた新堂に片岡が声をかける。いつものように本を読んでいて、机の上には開かれた白紙のノートが広がっていた。
「新堂君、おはよー」
朝比奈は膝の上のノートパソコンを睨んだまま言った。
「みんな揃って真面目なこって。日本の未来は明るいね」
「はは。単位が足りなくてぴーぴー泣いてる俺達が真面目とはね」
片岡が茶化すように言うが、朝比奈は顔を上げ心外というような顔をする。
「何よ。私はそんなに成績悪くないんですけど。ちゃんと計画的にやってます!」
「はいはい優等生。確かに俺らよりはましだな」
「ましなだけだろ。遊び呆けてるのは大して変わらない」
新堂と片岡の言葉に朝比奈は目を吊り上げる。
「私は遊び呆けてなんかいません!」
「最近は、な。一年の頃はお前、ひどかったからな」
「あーもうやめてよ! そんな昔の話。もう二年前よ! 心を入れ替えて真面目な学生になりました!」
「そう言う事にしときましょうかね。さて、飯を食ってさっさと片付けるか……あれ、ビーバー無いな?」
新堂がゼミ室の中を見回す。てっきり部屋のどこかにあるものだと思っていたが、ビーバーの剥製は見当たらなかった。
「ビーバー? どうかしたのか?」
片岡が新堂の方を向き直って聞く。片岡と朝比奈も部屋の中を見回すが、当然ながら新堂と同様にビーバーを見つけることはできなかった。ゼミ室にはない。
「外に無かったからてっきりこの部屋に置いたのかと思ったけど……どこやったんだろ?」
「ビーバーの剥製か。気付かなかったな……最初に来たのは俺だけど……ここでは見てないな。物置の方は見てなかったからよく分からないが」
「ふうん。じゃあ結局自分の部屋に置いたのかな?」
三階の奥には津幡準教授用の部屋が用意されており、そこは鍵もかかる。普段はあまり使っていないが、結局その中も雑多な荷物や資料のせいでひどい有様で、足を踏み入れたら泥沼のように脚が引き抜けなくなって出られないという噂だった。資料が崩れる現象は土石流と呼ばれ、事あるごとに崩れ、それを適当に戻すという事が繰り返され資料の状態は劣化する一方だという。
「あのゴミ屋敷に? 今頃土石流に巻き込まれてくちゃくちゃになってるぞ」
「ビーバーはダムを作るからな。意外と生き残ってるかも」
「何にせよ、私達の邪魔にならなくていいんじゃない? 夏になったら、なんか臭いそうだもん」
朝比奈の言葉に片岡も頷く。
「手洗いの水で濡れる心配もない。これで心置きなく手をぷるぷる出来るってもんだ」
「ねーちょっとやめてよ! 小学生みたいなことしないで!」
「心は少年のまんまだからね」
「そうそう。俺達進歩してないから」
片岡の軽口に調子を合わせながら、新堂は買ってきたコンビニのサンドイッチを頬張る。マヨネーズが手についたが、シャツになすりつけて拭いてしまった。朝比奈は目ざとくその様子を見ていたが、やってられないという様子で溜息をつき、自分のノートパソコンに視線を戻した。
「そういやビーバーで思い出したが……津幡さんも来てはいるようだぜ。顔は見てないけど」
「え、来てるの? 珍しいな」
「ああ。車が本棟の方の駐車場に停まってたぜ」
本棟とは総合研究棟の事で、長いので代わりに使われる呼び方だった。教授や講師たちの駐車場は本棟側にあり、当然津幡もそこを使っている。そちらは管理が行き届いていて、舗装にひび割れや水たまりも少ない。
「ビーバーの手入れに顔出したんじゃないのか? 随分ご執心だったし。今頃部屋でビーバーを頬ずりしてるかも」
「やめてよ、気持ち悪い……でも部屋にいる気配はないわね。いつもなら、私達の方に顔を出すのに」
「そうだな。俺は九時くらいからいるけど……もうすぐ十二時か。三時間の間に一度も見ていない。便所にもいってないみたいだし、そこの部屋にはいないようだな」
言いながら片岡は首をかしげる。わざわざ休日出勤してまでゼミ室以外に顔を出す用事というのは、ちょっと思いつかなかった。
小さな通知音が響く。朝比奈は椅子にかけたトートバッグからスマホを取り出し通知を確認し、そして眉を顰める。
「うっそ……やば……」
「何? 何かあったの?」
ただ事ではない朝比奈の様子に新堂と片岡は身を乗り出す。
「やっば……うちの敷地の周りに用水路あるでしょ。北側の交差点の近くで、落ちてる人が見つかったんだって……しかも二人」
朝比奈は食い入るようにスマホを見つめ、不安そうな声で言った。
「落ちてたって……怪我したって事か?」
新堂の問いに、朝比奈は小さく首を振る。
「違う……死んでたって……」
その言葉に、新堂と片岡浜雄を見合わせる。
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