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「そういや昔買った標本が奥に眠ってるんじゃ? なんでしたっけ? ヒトデとか……」

「ああ、棘皮動物な。星の形をした生き物……それらと星座の神話に関する伝承を関連付けようとしたが……それはもう過去の話だ。俺はビーバーに集中する」

「伝承との関連を調べてから買うべきでしょ。何で見切り発車で変なもんばっかり……まあいいや。で、新しく買ったビーバーはどこに飾るんです? まさかここに置きっぱじゃないでしょ?」

「うん、場所ね……」

 津幡は顎に手を当て考え込む。

「ゼミ室はゴミで、いや、貴重な資料でいっぱいだからな。しばらくはここに置かせてもらう」

「はぁ? 剥製を……いいんですか? 保存方法とかよく分かりませんけど……こんな外気に触れるような環境で置いても大丈夫なんですか。湿度とか温度とか。これから梅雨ですよ」

「まあ大丈夫なんじゃないか。ここは風通しもいいし」

「そんな適当な……」

 緑のカビだらけになったビーバーの剥製が頭に思い浮かぶ。何とも憐れな姿だった。しかし、新堂は気を取り直す。

「ま、いいか。俺のじゃないし」

「うむ、責任は俺がとる。何と言っても自分の金で買ったものだからな。はははは!」

 そう言い、津幡は前かがみになりビーバーに手を伸ばした。目を細め、犬や猫を撫でるようにビーバーの頭を撫でる。

「おや?」

 何かを不思議に思ったのか、津幡はビーバーの鼻先にチョンと触れ、首をかしげる。

「なんだこれ……湿ってる」

「え、鼻が?」

 そう言われ、新堂ももう一度ビーバーをよく見る。鼻先に水が僅かに滲んでいるように見えた。

「あーらら、言わんこっちゃない。もう湿気でやられてら」

「そんな馬鹿な! 昨日からここに置いているだけだが……まさか雨漏りでも?」

 津幡と一緒に新堂も天井を見上げるが、雨漏りの形跡はない。それにビーバーの周辺が濡れているという事もなかった。

「何かの成分が吸湿したんですかね? ほら、プラスチックとか、放っておくと加水分解でべたべたになるじゃないですか」

「そうなのか? ううむ。こんな話は聞いていないぞ……」

 ビーバーを睨みながら津幡はぶつぶつと何かを呟き始めた。興味を失った新堂は津幡を放置してゼミ室に入っていった。部屋には同じゼミ生の朝比奈と片岡がいた。

「あ、新堂君おはよー。ってもう昼か。おそよう」

「ちーっす」

 声をかけてきた朝比奈に新堂は適当な挨拶を返す。片岡は奥の机で本を読んでいたが、新堂に気付き振り返る。

「見たか、ビーバー」

「見たよ。つぶらな瞳だったね」

「あんなもんに二十万らしいぜ」

 小馬鹿にするように片岡が言う。その金額に新堂はぎょっとする。

「二十万? え……」

 後ろを振り返って津幡に聞こえないのを確認し、新堂が呟く。

「……馬鹿じゃないのあの人。そんなんだから彼女もできないし教授にもなれないんだよ」

「言えてる」

「ちょっと、二人とも言い過ぎよ。一応資料として買ってるんだし別にいいじゃない。自分のお金をどう使ったって」

 呆れ顔の新堂と片岡を窘めるように朝比奈が言う。だが片岡はさらに続ける。

「朝比奈、お前は甘いんだよ。優しすぎる。あいつが変な論文作ったら俺達まで仲間だと思われるぞ。読んだだろ? ヒトデと星座に見る神話的伝承の類似性……だっけ? 怪作だよ、正に。何であんなのが準教授なのかと疑いたくなる」

「まあ親戚のコネらしいからな。それも準教授まででそっから上には上がれないみたい……おっと、こっち来るぜ」

 片岡はそそくさと居住まいをただし、新堂も何食わぬ顔で自分の席に座る。

「いや、やっぱりおかしいわ。何でか分からないけどビーバーが濡れてた」

 部屋に入るや否や津幡はそう言い、ティッシュを箱から数枚取る。

「鼻だけじゃなくて?」

 新堂が聞き返すと、怪訝そうな顔で頷き答えた。

「湿っているのは加水分解なんかじゃなくて、まさしく水だ。濡れていたよ。それに体の方にも雫がついていた……窓がしまっていたから雨が吹き込んだ訳でもないだろうに」

「体まで濡れてた? 雨漏りでも窓からでもない。ビーバーはずっとそこにあったんですか」

「ああ、昨夜届いてからずっとあそこに置いてあった。もちろん、水気のあるものを近付けたりなんかしていない」

「ひょっとして……」

 新堂は疑いの目を片岡に向ける。ひょっとして片岡が、コップの水をかけるとか何かしたんじゃないか? そんな目で新堂が片岡を見ていると、察したのか片岡は小さく首を横に振る。だが次の瞬間動きを止め、口を開いた。

「あ……!」

 素っ頓狂な片岡の声に視線が集まる。

「何か思い当たるのか、片岡?」

「いや、さっきトイレから出て……俺、ハンカチ持ってないから手を振って……水を払ったんですよ。ひょっとしてその時の水が……?」

 片岡の言葉に津幡が気色ばむ。

「何だと?! トイレで洗った手の水が……標本がビチョビチョになってたぞ! どうしてくれるんだ!」

 顔を赤くして怒る津幡に、片岡は読んでいた本を置いて狼狽しながら答える。

「いやいや、ビチョビチョって事はないでしょ。雫で……鼻? とかちょっと濡れたんでしょうけど……」

「いい年をして洗った手を振り回すなんて子供みたいなことはやめろ! 禁止だ、禁止!」

「そうよ片岡君。ハンカチ位持ち歩きなさいよ」

 朝比奈も同調して言う。片岡はバツが悪そうに頭を軽く下げる。

「まあ今後気を付けるって事で……ていうか剥製を剥き出しで置いておくのも問題なんじゃないですか?」

「うるさい! 全部君のせいだ! まったく、折角のビーバーがカビたらどうするんだ……」

 津幡はぶつぶつと呟きながら、ティッシュを手に廊下に戻っていった。片岡はほっとした様子で大きく息をつく。

「やれやれ。水かけテロの犯人が片岡だったとはね」

「俺のせいじゃねえよ。手を振ってるのはいつものことだし、あんなところに剥製を置く方が悪い」

「いつもなの?! ちょっともう、やめてよ。不潔よ。ちゃんと拭かないと雑菌が手について洗った意味がない」

 ジト目で睨む朝比奈の視線を片岡はうるさそうに見返す。

「うるさいな。天日で自然乾燥してるから大丈夫だよ」

 片岡の座っている窓際の席は確かに日当たりはいい。今日も曇天ではあるが、本を読める程度の光が差し込んでいる。その光の中で片岡は手をひらひらと動かした。

「そのうちカビが生えないように日当たりのいいお前の席の隣にでもビーバーが置かれるかもな。汚すなよ、片岡」

「隣だって?! げっ、冗談じゃない」

 新堂の冗談だったが、まんざら冗談では済まないかも知れない。それをやりかねないと思わせるのが津幡という男の性格だった。

「あーあ、変な剥製のせいで力抜けちゃった……レポートレポート……」

 新堂はリュックからノートと教科書を取り出す。片岡は読書に戻り、朝比奈も途中だったレポートに視線を戻す。

 いつもと変わらぬ風景。取るに足らない日常。

 ……そのはず、だった。

 異変はすでに始まっていた。聞こえることの無い悲鳴はすでに響き渡っていた。そしてその声は近づいてくる。意志を持った力が。阻むことのできない暴威が。形を持って、確実に近づいてきていた……。

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