2ー1 濡れた剥製

 新潟県新潟市美羽埼大学。昨日から降り続いていた雨は止み、しかしぐずついた白い空が広がっている。いつ振り出してもおかしくないような気配が漂い、湿った冷たい風が吹いていた。

 周囲に広がる田んぼでは、早い所ではもう田起こしが始まっている。トラクターの周りにはカラスやシロサギが集まり、攪拌された土砂に隠れていたミミズや虫をついばんでいる。やがて田んぼには水が張られ、その水は稲だけでなく様々な生物の命を繋ぐ。メダカやゲンゴロウのような水生生物はとっくに姿を消していたが、蛙などはまだしぶとく生き残り草むらの中でその声を響かせることになる。

 美羽埼大学の総合研究棟から構内を横断する三級河川、いそい川を挟んだ東側に学習資料棟がある。うっそうとした林に囲まれた資料棟は野生動物の生息環境ともなっており、秋口にはタヌキやハクビシンなどが姿を見せることもある。今の時期は広葉樹の葉も落ち通う鳥もまばらだが、そろそろ芽吹いてきた新芽が食べごろになる時期だった。風はまだ冷たいが、温もりを増す日々の日差しに植物たちは着実に反応していた。

 新堂は総合研究棟の方から自転車に乗り、老朽化した橋を越えて学習資料棟を目指していた。アスファルトの水たまりを避けながら、学習資料棟の入口まで走っていく。

 駐輪場が無い為、自転車を停めるのは玄関脇だ。既に何台も自転車が置いてあるが、中にはサドルが破けたりタイヤがしぼみ外れているようなものもあった。卒業生が使っていた自転車を放置していくことがよくあり、ここ学習資料棟はちょっとしたゴミ置き場のようになっていた。

 自転車の他にも壊れたテレビやパソコン、バーベキュー用の鉄板のようなものまで捨てられている始末だ。数年に一度大学の総務課が大掃除をするが、残念ながら去年はその年ではなかった。そして去年の分もゴミは人知れず追加され、悪しきレガシーとして堆積していた。

「あー晴れててよかった。でも帰りは雨だな……」

 新堂は自転車には鍵もかけずにスタンドだけ立て、籠に入れたくたびれたリュックを持って学習資料棟に入っていく。

 入口のガラスの自動扉が軋みながら開く。玄関には足ふきマットもなく掃除も行き届いていない為、雨天時はロビーが濡れて時には泥で汚れている。つるつるした床で滑らないようにペンギンのように歩き、新堂は階段にまで辿り着き上の階を目指す。

 一階には使われていない物置があり、二階は理工学部、三階は人文学部の物置となっている。各階には他にもいくつか部屋があるが、ほとんどは荷物が押し込まれそのままとなっている。だが三階の一室は民族文化学部のゼミ室となっており、そこが新堂の目指す部屋だった。

「あー今日はレポートやって……他の課題まで手が回らないな。もうすぐ連休だってのに、これじゃどこにも行けないな」

 独り言と共に頭の中でスケジュールを組み立てながら、新堂は階段を上っていく。階段の途中や踊り場にも段ボールに入った雑多な備品や資料が置かれている。目録などはなく用が済んだから置かれているだけで、恐らくはもう二度と日の目を見ることの無い資料たち。そんな資料が山のようにある。それに混ざって釣り竿、ビニールのボール、バットやテニスラケットのような過去の卒業生が残していった遺物も多い。これらも捨てるべきなのだろうが、資料棟の中の事は総務課は関知しない。それぞれ理工学部と人文学部が管理者であるという姿勢で、そのおかげで中の物置には物が増えていく一方だった。

 階段の幅を三分の一ほど侵食している荷物の脇を歩きながら、新堂はなんとはなしに踊り場から外を見た。空は灰色に澱んだ色をしていていつ雨が降り出してもおかしくはないように見えた。構内全体が当然ながら雨に濡れ、遠くの駐車場にはいつものように大きな水たまりが出来ている。いつもの、雨上がりの何てことのない風景。そのはずだったが、新堂は何か奇妙な感覚を覚えていた。いつもと何かが違う……決定的な、しかし普段なら気にもしないようなことが、今見えている風景の中に隠れている。そんな気持ちになった。

「何だ……変なの? 疲れているのかな?」

 夕べもレポートとスマホのゲームで夜遅くまで起きていた。それは常の事だったが、寝不足はほとんど慢性的な物だった。と言っても病的なものではなく、若さと数十分の昼寝でカバーできる程度のものだ。今日も昼まで頑張って、午後の講義を乗り切れば明日は土曜日。新堂はそう考え、不思議な違和感の事は気にせず視線を階段の先に戻した。

「あ、津幡さん。こんちわー」

「おう、おはよう。つっても、もう昼か。相変わらず余裕だな」

 三階の廊下に立っていたのは準教授の津幡だった。袖をまくり上げたワイシャツとスラックス、それと丸眼鏡。寝ぐせがそのままになったような髪もいつもの事だった。雨上がりで気温はひんやりとしているが、それでも津幡には少し暑いらしく、めくった袖で額の汗を拭っていた。

「何してるんですか? とうとうゴミの整理の決断が付きました?」

「いやね、ようやく届いたんだよ! ほら、これ見て!」

 いつにない笑みを浮かべ津幡が正面を指差す。そこには茶色い獣の剥製があった。大きさは中型犬くらい、七十センチほどでずんぐりと丸い体をしており、そのせいか手足は短く見える。顔は穏やかそうな表情を浮かべ、口からは特徴的な大きな前歯がのぞいている。そして目につくのが尻尾だった。剥製は二本足で立つような形になっているが、その足の間から平たい板のような物が前方向にはみ出ている。位置的に考えてそれは尻尾……新堂にはそう見えた。まさか性器ではあるまい。

「……カピバラ?」

「違う! カピバラはもっとでかいだろ! こいつはビーバーだ!」

「ビーバーってオーストラリアの……でかいネズミ?」

「それも違う! それはウォンバットだろ、まったく。ビーバーはヨーロッパやアメリカに生息する動物だ」

「ふうん。ビーバー……木をかじってダムを作るんでしたっけ?」

 新堂はまじまじと剥製の前歯を覗き込む。オレンジっぽい色の太い歯は、なるほど、木をかじる事が出来そうな立派なものに見えた。

「でもなんでビーバーの剥製なんか? いつからうちは生物学科になったんです? それとも、昔この辺で棲んでたビーバーとか?」

「そういうわけじゃない。確かに民俗学をやってるうちがなんでビーバーなんかを……そう思うかもしれないがな。ビーバーは昔から湖沼に棲んでダムを作ってきた。そう考えられていたんだが、実は逆だったんだよ。ビーバーがダムを作るから湖沼のエリアが広がっていったんだ。それだけじゃない。水辺が増えることで植生も豊かになり、草食動物が増え、そして肉食動物も繁栄する。生態系を豊かにすることが出来る、環境を作り変えるすごい生物だったんだよ」

「……すごいのは分かりましたけど……それは自然系の学科の領分でしょ? なんでうちにビーバー?」

「分からないか? 水辺にすむ生き物で、他の生物や人間の文化にさえ影響を与える存在、それは……」

「それは?」

 新堂の頭に思い浮かんだのは鮭だった。アイヌを始め鮭に対する信仰や伝承は各地に存在する。新潟県でも特に村上市周辺ではイヨボヤ、最上の魚という意味で呼ばれている。卵を蓄え川を遡上してくる鮭は川の恵みであり豊かな自然の象徴でもあった。

「……河童だ」

「は?」

「河童だよ。川に住んでいて、人の生活習慣にも影響を与える伝承が数多く残っている。俺はビーバーと河童の類似性に気付いたんだ」

「河童はいいけど……え? ビーバーって日本にいないでしょ? カワウソならまだしも……」

「何言ってるんだ! 誰もが無関係と思い見過ごしてきた物事の中にこそ新たな発見がある。それを見つけるのが俺達の役割だ! ビーバー! 河童! おお、燃えてきた!」

 津幡の体が震える。ベンチプレスで一四〇キロを上げるという無駄な筋肉が震え、熱気を放つ。むせ返るような男臭さを感じ、新堂は一歩下がる。

「まあ何でもいいですけど。え、でもこんなもんを研究費で買ったんですか? ただでさえ少ないってのに。いくらしたんですか?」

「いや。これは私費だ。金額については秘密にしておこう。しかし……夏のボーナスまでもやしを食って生きるしかない事は確かだ。筋肉が痩せてしまうかも知れん」

「馬鹿なの……」

 思わず心の声が漏れた。新堂はもう一度ビーバーの剥製をまじまじと見る。津幡の言葉の感じでは数万円という桁ではなさそうだ。百万という事はないだろうが、数十万円くらいはするのかもしれない。剥製の相場など知る由もないが、所詮は他人の財布だ。新堂にとってはかなりどうでもいい事だった。

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