怪ビーバーの岸辺

登美川ステファニイ

1 怪異

 新潟県、親不知。岩をくり抜くようにして作られた国道八号は蛇行しうねりながら南北に伸びている。いくつものカーブ。トンネルやロックシェッドが続き、吹きすさぶ風に降りしきる雨粒が舞い上がる。

 交通の要衝ではあるが夜間の通行量は減り、その貨物トラックは明かりのない暗い道をヘッドライトで照らしながら進んでいた。右へ、左へ。カーブを何度も曲がり、加速と減速を繰り返し、指定された時間に間に合わせるために道を急ぐ。

 それは何度も繰り返された、慣れたはずの道だった。だがドライバーは不思議な感覚にとらわれていた。神経に何かが絡みつき麻痺するような感覚、世界を紗幕越しにみているかのような感覚。

 それは疲れだと思った。殊更無理をしているわけではないが、余裕のない行程はいつもの事だった。最低限の睡眠時間。休憩時間や食事の時間も削って少しでも早く、一分でも早く荷物を届けねばならない。エッセンシャルワーカーなどと横文字の称号を与えられても、その労働の実態は変わらない。きつく、つらい。それでも、人を相手にするよりは気が楽だとこの仕事を続けてきた。これからも続けていくつもりだった。

 強い風が吹く。真横から雨粒が窓に叩きつけられ音が響く。風で動揺する車体にハンドルを切り直し、言い知れない疲労感を頭を振るって追い払う。

 何かがおかしい。

 拭いきれない不安……奇妙な確信があった。今日は、いつもと違う。それが分かった。だが何が違うのかと言われれば、それをはっきりと言葉にすることはできない。意識の外に薄皮のようなものが覆いかぶさり、何か感覚を阻害されているような感じだった。

 ふと、寒気がする。

 車の温度計を見れば外の気温は八度。春になり日中は暖かい日も増えてきたが、夜、それも雨の日ともなればまだまだ寒い。しかしヒーターは効いているはずだった。

 乾く喉でつばを飲み込み、ヒーターのパワーを上げ、蛇行する道路を睨む。黒く濡れた路面をヘッドライトが照らす。ガードレールの下は断崖絶壁。高い所では海面まで四百メートルを超える。吹きすさぶ風は遥か下の荒れる海面の波しぶきがそのまま吹き込んでいるかのようだった。

 闇。雨粒。ヘッドライトの光。照らされるのは周囲の闇の限られた範囲だけだ。巨大なはらわたを思わせるような道路の隅、影の部分に、運転手は動くものを見た気がした。視界の端で何かが動いた。

 犬か、猫か。そんな思いが頭をよぎる。しかし周囲に人家はない。飼われているペットという事はないだろう。野犬か、狸のような他の動物だろうか。だがこのルートで仕事をするようになって数年、一度も道路上で動物を見た事はない。動物も分かっているのだ。この狭い道路に入り込めば命がない事を。

 影が、動く。それは異常な動きだった。左右に信じられない速さで動く。その動きに、思わずハンドルを切って車体が揺れる。だが次の瞬間、路面には何もなくなっている。だが、また見える。影が、視界の中を動く。

 そして運転手は気づいた。それは道路上を動き回っているのではない。彼の視覚の中で、まるで飛蚊症のように動き回っているのだ。

 影が、濃さを増す。視界の中で膨れ上がる。そして、衝撃。

「うわあっ!」

 突然の音に思わず声を上げる。音は背後からだった。ガリガリと、何かを食い破るような音が聞こえる。そして――叫びが聞こえた。

 耳をつんざく声に顔をしかめる。ハンドルから左手を離し耳を押さえるが、そんなことでは何も変わらなかった。

 そして、後方で何かをかじる音は次第に激しくなり、運転席後部の壁がガタガタと音を立て始める。ガリガリと削るような音が段々と激しくなり、それはやがて壁越しではなく、直接聞こえるようになっていた。

 何かがいる。何かが、壁を壊しながら進んできている。

 運転手は恐怖にトラックを止めることも出来ず、走りながら後方を見る。そこには、壁の穴から姿を見せる黒い物体があった。

 不意に、獣臭が漂う。汗と泥と糞便のような臭い。それらが一体となった嫌な臭いが運転手の鼻に届いた。

 闇の中で何かが光った。それは、その黒いものの目に見えた。真っ黒な、ガラス玉のような目立った。

 また叫びが聞こえた。すさまじい音、神経を逆なでする響き。フロントガラスにひびが入り、運転手は耳から血を流し始める。

 咄嗟に、ブレーキを踏んでハンドルを切った。切ってしまった。速度の落ち切っていない車体は左側、崖の方へと進んでいく。錆の浮いたガードレールが車両の落下を防ぐべく行く手を阻むが、角度と速度が悪かった。トラックの車体は海側へ飛び出し、そして路面という支えを失ってガクンと下に傾いていく。

 鳴き声が、また聞こえる。それは聞いた事もない、獣の声としか言いようのない声だった。びりびりと耳朶を震わせるような強く鋭い声。トラックはガードレールを突き破り、路面を擦りながら落下していく。その轟音の中でも悲鳴はよく聞こえていた。

 運転手の頭に何かが飛び掛かる。そして鋭いものが頭に食い込んでいく。運転手は振り払おうとするが、その生き物は獰猛に襲い掛かり決して離れようとはしない。前足の爪が髪と肉を掴み、離さない。

 トラックが落ちる。もはや死は免れない。その恐怖よりもなお、今自分に起きている事は恐ろしいものだった。獣が、赤黒い化け物が、牙を持つ何かが襲い掛かってきている。

 トラックの車体全体が落下し、浮遊感に襲われる。がぶりと首筋に噛みつかれ、そのまま強く体を引かれる。激痛が走る。

 ヘッドライトがはるか下の海水面を照らしているのが見えた。その視界も赤く染まっていく。鋭い痛み。臭い。森の木々、湿った土の臭い。恐怖の中で、その臭いが鮮やかだった。

 そして、何もかもが落下していき、トラックは海中へと没していった。

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