第12話

では、ここで1度

劉備玄徳について歴史を紐解いていきましょう。

『劉備玄徳』

三国志において、劉備は漢の高祖劉邦の末裔である劉姓の一族であり、漢王朝の復興を願う人物として描かれている。

また、劉備の義兄弟である関羽や張飛と共に桃園の誓いを行い義兄弟の契りを交わしている。

劉備が旗揚げした時、荊州を治めていたのは黄巾の乱で活躍した孫堅であったが、劉備は彼を殺害して荊州刺史の地位を手に入れる。その後、劉備は益州を攻め取り、その地を収めることになる。

しかし、後に弟の諸葛亮に裏切られ、蜀を治めることに失敗してしまう。

その後は、曹操や袁紹などの群雄割拠する乱世の中で、数々の軍功を上げながら、ついに天下統一を成し遂げた。

そんな劉備であるが、彼は元々侠客であったと言われており、彼の武勇伝も、彼が若い頃に喧嘩で相手を殺してしまった事が始まりとされている。

つまり、彼もまた呂布と同じく、戦いの中に身を置くことでしか生きることが出来なかった男と言える。

劉備が呂布に対して、特別な感情を持っていたかどうかは定かではないが、少なくとも劉備は呂布に好意を寄せていたことは間違いないと思われる。

劉備が呂布に恋をしていたかどうかは不明だが、劉備は呂布との友情を深めていったものと思われる。

さて、ここで少し劉備という人物について説明をしたいと思う。

劉備は字を仲謀といい、真名を桃香という。

劉備の出自については、諸説あり、劉備自身もよく分かっていない。

劉備は幼い頃は貧しく、家族を養うために畑仕事をしていたが、ある日、一頭の馬と出会う。

その馬が赤兎という珍しい名を持つ駿馬であったため、劉備はその馬を盗んでしまう。

そして、赤兎を連れて逃げ回るうちに盗賊団と出くわし、これを殺して金品を奪い取ると、それを元手に商売を始める。

やがて、劉備の元には多くの人々が集うようになり、彼らは皆「三璃紗(中華)」という理想郷を作る為に行動しているのだと言い始めた。

最初は何を言っているのか分からなかった劉備だが、次第に自分もその考えに賛同し始め、いつしか自分のことを「大賢良師」と名乗るようになる。

劉備が「三璃紗」を作り上げる為に行った事は、まずは戦乱に苦しむ民を救うことだった。

その為に、各地の諸侯と同盟を結び、彼らとの間に戦を収めた。

次に、各地に残る賊徒を討ち果たし、悪政を敷いている者達を追放した。

そして、最後に中原の統一を目指した。

劉備は各地で義勇軍を募り、兵を集めつつ各地を転戦していった。

この劉備の行いは、後の世に言う「反董卓連合」と呼ばれる事になるのだが、この辺りから劉備の行動に疑問を抱く者が出てくる。

そもそも、劉備は本当に漢王朝再興を願っていたのだろうか? もし、そうであれば何故、徐州を攻めた時に呂布に協力を求めず、逆に呂布の妻子を捕らえたのであろうか? この疑問に対する答えは様々あるのだが、劉備自身は自分が掲げる「三璃紗」を実現するのに邪魔となるものを全て排除しようとしたのではないかと言われている。

しかし、劉備の野望は呂布によって打ち砕かれる事になった。

呂布が曹操に敗れて後、劉備は呂布の妻子を返還する事を条件に、呂布に降伏するよう促した。

だが、呂布はこれに応じなかったため、劉備は自ら軍を率いて呂布の居城である陳留に攻め込む。

この時の劉備軍は二万五千とも言われる大軍で攻め込んだものの、呂布は寡兵の精鋭のみで迎え撃ち、さらに張遼や臧覇と言った武将達が援軍として駆けつけてきた事もあり、劉備は惨敗を喫して敗走した。

その後、劉備は呂布に降って許され、呂布と共に戦うことになる。

だが、劉備がこの時何を考えていたかを知る術は無い。

もしかすると、劉備は何も考えてはいなかったのかもしれない。

ただ、目の前にある障害を排除しようとしただけなのかもしれない。

その後、劉備は呂布の妻である呂姫を人質に取ろうとしたり、呂布の娘である呂姫の婿になる事を約束するなど、呂布に対して揺さぶりをかけていくが、呂布は全く動じることなくそれに応じる事は無かった。

むしろ、呂布は人質を取られているにも関わらず、劉備の為に自ら戦場に出て戦ったり、呂布の留守中に劉備の軍が侵入してきた際には、自らの命を顧みずに劉備を助け出したりなど、劉備に対して献身的な姿を見せていた。

呂布の態度は劉備の予想を大きく上回っていたらしく、劉備はこの時に呂布に対し強い信頼感を抱いたと言う。

実は呂布は劉備に襲われていたのではというオチです。

この後、呂布は劉備を裏切って曹操の元へ身を寄せる事になります。

ちなみに、劉備はこの後に曹操の元へ向かい、曹操から厚遇を受けるのですが、それはまた別の話。

ここでは、よく話が出てくる

曹操孟徳について語るとしましょう。

『曹操孟徳』

曹操は字を文若といい、「孟徳」は高祖劉邦の太祖の字から取られたものである。

三国志の中でも群を抜いて有名な人物であり、後世の歴史家達からも英雄の一人として数えられている人物でもある。

また、三国志演義においてもっとも重要な人物であるとも言えるだろう。

そんな曹操であるが、彼の生い立ちには謎が多い。

曹操は元々は孤児であり、貧しかった為に食い扶持を減らす為に、口減らしのために捨てられていた。

曹操は捨て子であったため、曹操という名前も本当の名前ではないらしい。

曹操が捨てられた場所の近くには、曹操と同じような境遇の子が何人もいたそうだが、曹操以外は皆、死んでしまった。

曹操だけが生き延びた理由は分からないが、曹操はその後、曹操を捨てた両親に復讐する為、旅をして回り、やがて曹操を捨てた両親の住む村に辿り着く。

そこで、曹操は偶然にも、両親が村人に虐げられている現場を目撃してしまう。

その光景を見た瞬間、曹操の中で何かが変わったという。

その日以来、曹操は別人のように性格が変わり、村人達を虐殺して回った。

しかし、まだ子供だった曹操は一人残らず殺す事は出来ず、何人かは見逃してしまった。

その結果、その者達が『流賊』となって近隣の村々を襲い始め、その事件をきっかけに曹操は『曹姓を名乗ることを許された』『魏王となった』と言われるようになった。

こうして、曹操は両親への復讐を果たすと同時に、その血塗られた手で皇帝にまで上り詰めることになる。

しかし、その時には既に両親は死んでいたと思われる。

何故なら、曹操は村の生き残りの証言を元に、その日に曹操を捨てたと言っていたからだ。

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