第9話

そして、周王朝の第5代孝霊帝の代に、「周」が滅びて、「晋」という国が興った。これが現在の中国であり、周王朝の「甲骨文」「金印」が発見された場所である。

しかし、「倭人伝」にある周王朝最後の皇妃である弟橘媛(オトタチバナヒメ)は、その「倭」の王族の女性であるとされているのだ。

このことから、中国における「周」と「周王朝」が同じものであり、「倭」と「倭王朝」も同じものであると考えられるのだ。

そうなると、「倭」はやはり、「倭王朝」であると考えるのが自然である。

ちなみに、中国は、紀元前1世紀頃に戦国時代に入り、やがて、秦によって中国が統一されたのだが、秦は、中国全土の統一を目指して戦争を始めた。

これが『史記』に出てくる戦国七雄の一つである秦の起兵である。

紀元前237年に、秦の始皇帝は、「天下統一」という夢のために、ついに中越戦争を起こした。この時、秦は20万人の大軍を率いて出兵したのだ。

そして、この戦争は、結局、始皇帝の死後も続いた。

その結果、紀元前222年には、「商の戦い」と呼ばれる戦いがあり、秦軍が勝利したが、その後、「函谷関の戦いで楚軍に敗北し、咸陽の城壁に追い詰められる。秦軍は包囲され、降伏を余儀なくされた。

しかし、その時、「項梁」(コウソンリョウ)は、「この上は死なば諸共」という感じで、味方もろとも城壁に登り、「斉王」の号を与えられたのである。

「項梁」というのは、項羽と共に戦った武将で、漢の高祖劉邦に仕えた「蕭何」と並ぶ有名な将軍の一人である。

そして、「倭」が「倭王朝」であるとするならば、この「倭」は、この「楚」のことを指している可能性が高い。

つまり、「倭」とは、「倭王」が治める国という意味だったのである。

ここから少し『三国志』及び『三国志絵巻』について供述していこう。この『三国志』は、三国時代の出来事を記した歴史書で、作者は陳寿という人物だ。この人は、後漢末期の武将である曹操の家臣であったが、彼の死後、彼の跡を継いだ曹丕に仕えている。

彼は、三国時代の前半の主役である劉備玄徳に仕えていた。そこで、劉備の妻である関羽の娘を妻としている。

そのことから、正史においては、蜀側の視点に立った記述がなされている。

だが、実はおかしな点もいくつか浮かび上がっており、その代表的なものが、正史の記述の中に、魏志倭人伝の内容が取り入れられている点である。

例えば、「倭」は、「邪馬台国」のことで、「邪馬台国の女王が倭の王に貢ぎ物を持ってきた」というような内容になっているのだ。

これは、魏志倭人伝に書かれている内容を、そのまま引用したものである。

また、この「倭」は、「倭」と「倭王朝」の両方をさしており、「倭王朝」のことは、「倭」と書くのが正しい。

また、正史には、魏志倭人伝の内容をそのまま取り入れた文章以外にも、様々な内容の文章が見受けられる。

これは、正史を書いた人物が、実際に見たことをそのまま書いたのではなく、自分の想像を交えて書いているからである。

この事から考えても、魏志倭人伝の内容は、正史が書かれたとされており

この事からほぼ忠実に再現をなされた史実であることは伺えるのであるがやはり三国志史上では魏志倭人伝を真実として考えるのは難しい。

なぜなら、魏志倭人伝には、中国が周から周王朝に変わるといった内容が書かれていないからだ。

魏志倭人伝には、中国が周から周王朝に変わった時には、周の都があった洛陽を中心にして東半分の地域が「殷」となっていたとあり、魏志倭人伝では、「殷」は突然のように歴史の舞台に現れた大国としての記載もあるようで、周王朝と魏志倭人伝には繋がりがあるとは考えにくいのだ。

しかし、魏志倭人伝には、周の都があった洛陽を中心にして東半分の地域が「殷」となっていたとあるから、周王朝と魏志倭人伝には繋がりがないとも言い切れない。

だから、周王朝が滅びた後に周の都があった洛陽を中心にして東半分の地域が『魏志倭人伝』に書かれていた「殷」になったということは十分にあり得る話なのだ。

つまり、周王朝と魏志倭人伝は、繋がっているということなのである。

では、ここで一旦話を三国志と三国志絵巻、ここからは『三国志英雄譚』も取り入れていくこととしよう。

まず、『三国志』は、西暦220年前後に成立したと考えられている書物であり、三国時代の前半の時代の話が描かれている。

そして、『三国志』に登場する主な人物と言えば、曹操(ソウソウ)や劉備(リュウビ)、孫権(ネンエン)などが有名である。

特に曹操は、「三国志演義」の主人公であり、「演義」では、文武両道に優れており、天才的な才能を持った人物として描かれており、また、女性関係でも華やかな人物である。

一方、劉備は、関羽(カンウ)と張飛(チョウヒ)という二人の義弟を持ち、黄巾の乱の時には義勇軍として参加していた。

その後、官軍に加わってからは、荊州(ケイシュウ)の太守にまで出世している。

しかし、その後、呂布(リョフ)との戦で敗北し、以降は、徐州の陶謙(トウケン)の元で客将となっている。

そんな劉備は、関羽が死んでしまった後は、天下統一の夢を諦めて、家族を連れて益州へと移住し、そこで暮らすこととなる。

だが、劉備は天下統一という夢を忘れることは無く、劉璋(りゅうしょう)の下で働きながら機会を待っていた。

そして、ある日、劉備は劉璋に反旗を翻し、独立することに成功する。その後、劉備は、益州の牧となり、蜀の建国に成功する。

そして、劉備は、諸葛亮孔明を重用して、北伐を開始し、北方の異民族である匈奴(キョウド)を討伐したり、南方の呉(ゴ)と戦ったりしていた。

しかし、蜀の国力が弱まっていたこともあり、呉に攻め込まれてしまい、蜀は滅亡してしまう。

その後、蜀の王族である劉禅が魏に亡命するも、魏の皇帝である曹操は許さず、殺そうとまでした。

しかし、劉備の妻である呂姫の機転により、何とか亡命に成功し、蜀の国は再興される。

そして、魏の皇帝である曹丕(ソウイウ)は、劉表を攻めるが、その隙を狙って、孫策が攻め込んできたため、戦いが始まる。

しかし、この時の戦いにおいて、曹操の息子で後継者の曹植が戦死するという大きな犠牲を払うことになる。

そのため、曹丕は、魏帝の座を追われてしまうのだが……

さて、話は三国志に戻るが、劉備は、曹丕によって魏帝の座を追われた曹丕に対して反乱を起こす。

この反乱は、劉備が主導したもので、曹丕が、蜀を滅ぼす原因となったので、その責任を取らせるというのが目的であった。

そして、曹丕が劉備に敗れた後、曹丕の息子である曹叡が魏帝となる。

だが、この後、魏は衰退の一途を辿っていくのだった。

しかし、魏は、その後も魏志倭人伝に出てくる「倭」の「王」を名乗る者が現れてくる。

それが、「晋」(しん)という国だ。

この「晋」は、三国時代の前半の主役の魏・呉と同時代に存在した国である。

この「晋」も、「倭」と同じく、「邪馬台国」を国号としていた国だ。

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