第8話
このように考えてくれば、倭の王の妃が倭の王の后になったのは、「雄略」の方だったのではないかと思う。
倭の王が倭の王子なら「武烈」の方が、「雄略」より先だったとも考えられる。
その場合、「雄略」が亡くなった後に、「武烈」が即位すると、『魏志倭人伝』には書かれている。
しかし、もし、「武烈」も「雄略」も亡くなった後に、「彦五十狭芹彦命」が即位するとしたなら、「雄略」が亡くなった後の「武烈」は誰の子なのだろうかという疑問が出てくる。
それなら、「武烈」が死んだ後に、「彦五十狭芹彦命」が生まれたと考えた方がすっきりする。
倭の王が二人いて、そのうちの一人が倭の太子になった。その倭の太子が亡くなった後に、もう一人の倭の王が倭の太子になった。だから、倭の王が二人いたということだという説には矛盾がないからだ。
そうなると、次の倭の王が「武烈」という子か、その子の弟である「武彦」だという説が出てきそうだ。
「武烈」と「武彦」は別人なので、二人のうちのどちらかが「倭の六王」の一人になったと考えなければならない。
「倭の六王」が「彦五十狭芹彦命」であるとしたら、「雄略」と「武烈」は別人ということになる。
「雄略」は「武烈」よりも若い王であったから、「雄略」が「倭の六王」の一人になり、「武烈」は「倭の六王」ではなかったという可能性が高くなる。
「倭の六王」が「彦五十狭芹彦命」でなかったとしても、『魏志倭人伝』では、魏の皇帝が倭の王に下賜したものを返礼として受け取ったり、使者を返したりする場面もあるから、「倭の六王」の一人に間違いないはずだ。
では、「彦五十狭芹彦命」は何という名前なのか。
実は、私は、この名前の由来にかなり悩んだ。
何故なら、「彦」という字は、中国の周代に使われていた漢字である。『魏志倭人伝』に書かれている内容からは、とても「倭」の時代に使われていたとは思えないからである。
しかし、倭の時代にも、周王朝からの渡来人が来ていたとするのならば、この字を使っていてもおかしくはない。
それに、中国に朝貢していた倭国の王が、中国に行っていた間に、中国からの使者が来たということがあっても不思議ではない。
この事からも分かるように、中国から見た倭国は、倭国から見た中国のように、中国に朝貢をしていたと考えることができる。
だから、倭国でも周代の古い時代に使われていた文字が使われていたと考えられるのだ。
そこで、中国から見た倭国が朝貢国で、中国から見た倭の王が中国に行ったことがあると仮定してみた。そうすれば、周代に使われたと思われる「彦」の字が使われていても不思議はないことになる。
また、中国では、王朝が変わる度に、新しい名前が付けられる習慣がある。そのため、ある王朝の初代の名前と二代目の名前が同じ場合がよくある。
例えば、前漢の初代皇帝劉邦は、楚漢戦争で有名な項羽と戦いに敗れて自害した劉邦だが、二代目の高祖皇帝劉邦の名前は、彼の長男である沛公である。
他にも武帝という皇帝がいたのだが、彼もまた次男であったために兄の名を引き継いでいた。
同じように二世皇帝に掛かる負担は甚大ではないということである。それだけでなく、三代の文帝の名を受け継ぐ者もいたり、四世を名乗る者が出てきたりと、混乱してきている。
こうなると名前をつけるのが面倒臭くなりそうである。
このように考えると、「倭」の時代にも、この「彦」を名前として使うことがあったのかもしれない。
また、「彦」を「日子」と読むことも考えられなくもない。
この読みをすると、「ヒコ」という読み方になるので、「雄略」の妃である倭姫が産んだ皇子は、彦五十狭芹彦命という名になるはずである。
そして、もし、その倭姫が「彦五十狭芹彦命」を産んだとすると、この子は「彦五十狭芹彦命(雄略)」の孫にあたるということになる。
この事から、「彦五十狭芹彦命」は、「雄略」の子である「倭の六王」の一人である可能性が濃厚になる。
ただ、もしそうだとしたら、「雄略」が亡くなった後に生まれた子ということになり、年齢的には若すぎる気がしないでもない。
また、倭の王が複数いて、その内の一人で「倭の六王」になったという可能性もある。その場合だと、その倭の王が亡くなると、倭の王がいなくなるため、次の王が倭の国に入ると、また面倒くさい事となるのだ。その場合は、次の王が誕生するまで、別の王がいることにするしか方法がない。つまり、次の王が誕生した時点で、その倭の王が死ぬと、また次の王が現れる。
しかし、その場合は、倭の王の妃である「倭姫」はどうなるのだろうか。倭の王は一人しかいないのだから、当然、「倭姫」は夫である「倭の王」の死を待つしかないだろう。
そうこれは致し方ないことではあるがこれもまた歴史を残すという意味では正しい事柄なのかもしれない。
この数年後、倭国の「雄略」が亡くなった後に即位した「武烈」が倭の女王と結婚し、倭国の王の后は、夫となった「武烈」が倭国の王の后の夫になるという関係は続くこととなる。
倭の王が、二人とも亡くなってしまった時に、「武烈」が倭の王の后の夫になり、その後、倭の王になったとしても、倭国の后は「武烈」の妃ではなく、「武烈」の后なのだから、倭国の王が「武烈」か「武彦」かという争いが続いてしまう。
それを避けるためか、倭の王の「武烈」が亡くなった後に即位した「武彦」の即位を認めることにしたようだ。
ここで、一旦歴史をヨーロッパ方面へと移すとしよう。まず、「魏志倭人伝」が書かれた時代は、七世紀の前半ぐらいであるとされている。
一方、西暦で言うと、「630年」頃に書かれたと言われているから、「倭」が邪馬台国と呼ばれていた頃の年代とほぼ同じということになる。
「魏志倭人伝」には、当時の東アジアの状況が書かれている。そこには、朝鮮半島が百済と新羅に分かれていたことや、中国大陸には高句麗や中国が存在しており、それすらもいまでは考えられないとされており、隋の時代だと推測されているのだ。
つまり、その頃の「魏志倭人伝」には、「魏」が統一されて「呉」になっていたことが書かれている。
「魏志倭人伝」の「魏」とは、魏書に言うところの魏志倭人伝のことであり、中国最初の統一国家である秦のことである。
「呉」とは、周代に周王朝から最強国家と言われるているほどである。中国に分裂しているとはいえ、まだ大国として存在している。
そんな時代において、「倭人伝」では、「卑弥呼」は女王であったと記されている。
『魏志倭人伝』によると、中国の王朝が周から周王朝に変わった時には、周の都があった洛陽を中心にして東半分の地域が「殷」となっていたようである。
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