第7話

その時代には、既に中国と日本との交流が盛んになっていた。特に遣唐使の制度によって、多くの留学生が日本に送り込まれていたし、遣隋使・遣唐使が送られて、多くの仏教僧が大陸に派遣されている。また、新羅の侵攻もあって、朝鮮半島にも多くの僧侶が派遣されたりしている。そうした時代に、中国の書物を読んでいた日本人にとっては、当然、中国の歴史書は「正史」と呼ばれる「三国志」が中心になる。

しかし、中国の「三国志」は、中国の歴代王朝の歴史が書かれているから、日本の朝廷にとって都合の悪いことが書かれている。そこで、中国と日本との交流が盛んになってきた平安後期以降になると、中国の「三国志」を参考にして「倭」という文字が使われるようになったのではないか。

また「倭」が「倭」になったもう一つの理由は、中国から見た場合の「倭」が「倭人(わじん)」という音で呼ばれていたからではないか。

「倭人」は、中国の史書の中で「倭の蛮族」、「倭の土民」、「倭人の住むところは山々に囲まれた僻地にある」などと書かれていて、蔑視されている。

中国から見て、倭人は野蛮な民族であり、辺境の地に住んでいた人々なのだ。

一方、当時の日本人の感覚としては、倭人は中国大陸『魏志』でいう「東夷中最も大なる者なり」の大国の人々で、同じ中国人でも倭国に住む倭人と自分たちとは違った人種だと考えられていた。

つまり、当時の日本の知識人は、倭人を中国から見ると「倭の蛮族」であっても、日本人からは見れば、「大和の国人」と同じような意味で使っていたと考えられるのだ。

このように考えてくれば、「倭人伝」が書かれた当時に、「倭」が「倭人」と読まれていたことは納得できる。

ちなみに、現代中国語の方言の一つである台湾語でも、「倭」の音は残っている。

「倭」が「倭人」と呼ばれたことは分かったが、もう一つ気になることがある。

それは、この倭の王族が帯びたとされる剣のことである。

『古事記』によれば、その剣の銘は「草薙の剣」であるという。

その剣が、本当に実在したのか、それとも伝説上の武器なのか分からない。

だが、その伝説の武器が実在すると仮定すると、その伝説の武器を持つ倭の王族は、どのような立場にあったのだろうか。

倭の王族は、魏の恵帝の時代に、魏の皇帝に妃として迎えられた。

そして、その皇帝の息子は、倭の王として即位した。その皇帝の子孫が、現在の天皇家ということになる。

ということは、その倭の王が持っていたという「草薙の剣」は、天皇家の先祖が持っていることになる。

「草薙の剣」は、神話の時代より前から存在し、神武天皇が即位する以前から天皇家に受け継がれてきた宝物だったのではないだろうか。

だとすれば、倭の王は、天皇家の先祖ではなく、天皇家の当主ということになってしまう。

『魏志倭人伝』を読む限り、天皇家が倭の王の直系の子孫である可能性は低い。

それでも、天皇家は、「草薙の剣」を代々受け継いできたと考える方が自然だと思う。

『魏志倭人伝』では、倭の王が死んで、その息子が即位したとある。

これは、倭の王が死んだのではなく、倭の王『雄略』が亡くなった後に、『武烈』という息子が即位したと解釈した方がいいと思う。

何故なら、「雄略」という名前は、「雄略天皇の略歴」という意味で、「雄略」を「雄略紀」と読んでもおかしくないからだ。

また、『魏志倭人伝』には、「雄略」と「武烈」の他に、「彦五十狭芹彦命」という名前も出てくる。

この「彦五十狭芹彦命」を、「ひこいさせりひこのみこと」と読んだら、「雄略」と「武烈」と「彦五十狭芹彦命」の三人の名前が並んでいるのだから、「倭の五王」の順番は、「雄略」→「武烈→彦五十狭芹彦命」となる。

『魏志倭人伝』には、そのように書いてあるわけではないが、そう考えないと辻妻が合わないことが多い。

しかし、そうなると、倭の王が二人いたことになってくる。

「雄略」「武烈」のどちらか一人だけなら、そのどちらかが「倭の五王」の一人になる。

しかし、二人の王がいたとなると、どちらが「倭の五王」なのか分からなくなってしまう。

そこで、私は二つの仮説を立てた。

一つ目は、「倭の五王」は、倭の王が二人で、そのうちの片方が「倭の六王」になったというものだ。

その場合、「倭の六王」は、中国から見て、「倭の蛮族」である倭人の国の王たちである。

『魏志倭人伝』では、倭の王の妃が、魏の皇帝に迎えられ、皇帝の皇子が倭の国王に即位したとしか書かれていないから、倭の王が二人以上いたかどうかは分からない。

しかし、もし、倭の王が一人ではなかったとすると、倭の王の妃は、皇帝の皇后になるはずだから、皇帝の皇后が倭の王の后になったと考えれば、説明がつく。

この場合、「倭の六王」は、魏から見て、「倭の蛮族」である倭人の国の支配者たちのことだから、中国から見た場合と、日本から見てみた場合に違いがある。

中国から見れば、倭の王の妃が、倭の王の后になり、その倭の王が、中国に朝貢しに来たという関係になるが、日本から見ると、倭の王の妃が、倭の王の后になっただけで、倭の王の妃が倭の王に即位したとは考えられない。

なぜなら、倭の王が中国にやって来た時に、既に倭の王は死んでいたかもしれないからだ。

倭の王が死んでいないとすれば、その妃が倭の王の后になっても不思議はない。

しかし、倭の王が生きているのに、倭の王の妃が倭の王の后になっているとしたら、その倭の王は、倭の王の后の夫ということになり、倭の王が倭の王妃の夫ということになる。

中国から見ると、倭の王の妃が倭の王の后になったが、倭の国から見ると、倭の王の妃が倭の王の后になったという関係で、中国から見ると、倭の王の妃が倭の王の后になったことで、倭の王の后が倭の王の后となったように見える。

ここで歴史を少し先に進める。倭の王が、倭の王子であったとして、その倭国が滅びたとする。

すると、倭の王の妃が倭の王の后となり、倭の王が倭の王の后の夫のことになる。

つまり、倭の王の后が倭の王の后の夫とはならず、倭の王の后が倭の王の后の夫になるという関係だ。

イタリアで、ローマ教皇が神聖ローマ皇帝と結婚しているのと同じ関係になる。

つまり、中国の皇帝が、倭の王の后の夫になるのだ。

この考え方だと、倭の王が、倭の王子ではなく、倭の王女であっても同じことが言える。

その場合、倭の王の妃が倭の王の后になるのだから、倭の王の妃が倭の王の后の夫になる。

フランス皇帝ナポレオンが、フランスの皇妃ルイ十八世の夫になるように、日本の天皇の妃が、倭の王の后の夫という関係になるのだ。

そして、倭の王が、倭の王子であり、倭の王女でもあった場合は、どうなるのか。

その場合は、倭の王の妃が倭の王の后の夫になるのではなく、倭の王の妃が倭の王の后の夫ではなく、倭の王の妃が倭の王の后になる。

そして、倭の王の妃が倭の王の后になるとしたら、倭の王の妃が倭の王の后になるのではなく、倭の王の妃が倭の王の后の夫という関係は変わらない。

倭の王が倭の姫の場合も同じことである。

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