第6話
つまり武寧王が即位した時に、倭建の皇太子は既に亡くなっていたということになる。
雄略天皇は五十一年に死んだのだから、武寧王が即位して三十六年も経っていれば当然、天皇の孫である雄略天皇の子供も亡くなっていることになる。それに、もし生きていたとしても二十代後半くらいになっていてもおかしくない年齢だったはずだ。そうなると、倭香との関係もなくなってしまう。それで私は、景行天皇が「書紀」に「武(たけ)を倭香(やまとのかも)に通ず」と書かれていて、倭香は武(たけ)と読まれているのと同じように、「魏志」に言う「倭(わ)」が「和(やまさ)」
すなわち「倭(わ)」と書かれていたのではないかと考えた。倭の王族が景行天皇の娘なら、景行天皇の娘は、景行天皇の孫に当たる景代の子を産むはずなのだから、「倭」を「倭」と書くのはおかしいと思うからだ。
『書紀』には、倭姫が景行天皇の娘だと書いてあるが、倭の王家には他にも多くの皇族の男子がいたのである。『書紀』には、景行天皇が五十一年に亡くなった後、天皇の娘が三十三歳で亡くなったことが書かれているが、実はその年に生まれた皇子の年齢は若かったからではないのか、と思ったのだ。
それなら、「日本書紀」の記述とも一致するからだ。また『書紀』には、「倭漢三才図会」
に載っている雄略天皇像を見ると、顔が小さ過ぎて不自然に見える。これは「古事記」にある神武天皇像の顔の大きさと比較すれば分かる。
『魏志倭人伝』の邪馬台国は九州にあったのではなく、近畿の大和盆地に存在したという説は、既に述べた通りである。しかし『三国志』の陳寿が著した『三国志』には、魏の武帝の時代の陳寿自身の見聞を記した部分があり、そこには「陳寿は、倭国の都がどこにあるか知らなかった」という記述もある。
この陳寿の「陳」というのは、当時の中国の王朝の名であり、陳の国の人で陳寿という人だったのである。
この陳寿が記した「陳」という国が、現在の中国東北部の燕の国なのか、それとも朝鮮半島南部にある百済の国のことだったのか分からない。
しかし陳寿が記したとされる『三国志』の中の記事の中に、倭人の住むところについて書かれた箇所がある。
それは、陳寿自身が書いたと思われるもので、その内容は次のようである。
「昔、魏の国にいた時、ある人が言った。『今、倭国はどこにありますか』
すると、その人は答えた。『東の方の海に、大きな島があって、そこにいる』
そこで、魏の国の人々は、東の海に行ってみると、確かに大きな島があった。
そこで人々は、そこに住んでいた人々を見た。彼らは、みな裸で、腰に帯を巻いていた。
そこで、魏の国の人々の一人が進み出て尋ねた。『あなたたちは、どうしてそんな格好をしているのですか?』
彼らは答えた。『私たちは海の向こうから来たのです。私たちの祖先たちは、海のこちら側の人たちよりも背が高かったので、服を作ることができなかったのです。でも、もうすぐ夏になるのだから、服を着ようと思います』
そこで、魏の国の人々が船に乗って行くと、その島には大きな木が何本もあった。そこで、魏の国の人々は、その木の枝を取ってきて、その人々に与えた。その人たちは喜んで、それを着るようになった。
それから、魏の国の人々は、その人々に食べ物を与えた。そして、彼らの言葉を話し始めた。
その後、魏の国と倭の両国の間に国交ができた。
魏の明帝の時代に、倭の使者が来たことがあるそうだ。その時、使者は、こう言って魏の皇帝に挨拶をしたらしい。
『私は、卑弥呼様の使いとして、やって来ました』魏の皇帝はそれを聞くと、ひどく驚いたそうだ。
『何だって? あの小さな島の国から、こんなに遠くまでやって来たというのか!』
そう思ったそうだ。
そして、魏の国々は、みんな倭と交流するようになった。
魏の恵帝の時代になって、倭の王がやってきた。そして、魏の皇帝に贈り物を持ってきた。
その中には、たくさんの黄金が入っていた。そして、倭の王は、魏の皇帝に言った。
『私は、あなたの国と友好を結びたいと思っています。どうか、私の妻を妃として迎えてください』
魏の皇帝は、その申し出を受けた。
こうして、魏の恵帝の妃となった倭の王は、やがて男の子を産んだ。
その子の名は、雄略といった。
雄略が十五歳になった頃、倭の王は死んでしまった。それで雄略が即位した。雄略の即位の時には、多くの国賓が招かれたが、その中に倭の王の子もいた。
雄略が即位した後、倭の王は、自分の息子を王位につけたいと願った。そこで、雄略はその願いを聞き入れた。
雄略は、倭の王の妃であった女王と結婚し、二人の王子が生まれた。
その一人が、武烈天皇だった。
武烈天皇は、倭の王が亡くなってから即位した。武烈天皇が亡くなった後、倭の王が即位した。それが、景行天皇だった」
陳寿は、「魏志倭人伝」を訳す時に、倭の国名を「邪馬台」としたようだが、「邪馬台」は「やまと」と発音する。
『新唐書』や『隋書』、『三国史記』『日本書紀』などは、所謂、「倭」の字を使っているが、それは「やまとの」と読むのが正しい。
しかし、『三国志』には、「倭」が使われている。『三国志』の著者である陳寿が「倭」を使ったのには理由があるはずだ。
その理由の一つが、陳寿が「倭」を「倭人」と読んだことだろう。
「倭人伝」では「倭人」と書かれているが、「倭」には、「やまとの」という意味もあり、「邪馬台」も「やまと」とも読める。「倭」を「倭」と書いたのは、「魏志倭人伝」が編纂された時の時代背景を考える必要がある。
「倭」が「やまと」とも読めた時代は、「日本書紀」や「古事記」が成立した奈良時代から平安時代にかけてである。
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