第5話
また『日本書紀』は崇神の治世が四十一年で終わるとしているのだが、『続日本紀』では四十三年で終わり、『旧唐書』には五十六年までだと書かれている。そして『魏志倭人伝』の「東夷伝韓人種条」には、次のように書かれている。「其の上、男女、皆帯倭人也」と。『魏志』は、日本のことを、倭、倭国と書いているのだ。そしてこの「倭」という文字は、倭香と倭建の二人の名前の「和」「和」と同じなのだ。
つまり、倭国は「倭人」の国で、それは「倭香」の国であり、倭国=倭人は倭香の子孫で、倭香の子孫である「倭人」が治める国は「倭国」らしいが
『旧辞』には倭建と倭建の一族は倭大国の王子で、倭国の王は「倭建の王孫・稚日本水賊火(わかひのもといくさのおみわくほこひめみずかき)」だという。『新説日本書紀』や『古事記』には書かれていないが、倭大国とは倭国のことであり、稚は日本であり、ミズカキとは海のことなので、この記述からも倭建とは倭のことで、倭香とは倭建の妻の倭香理媛のことであると分かる。
そこで、倭香は「倭建の王女」で、倭建は「倭建の王孫」、「王」という称号を持っているので、倭建は「王孫」なのだと理解されるのである。
倭香については、『日本書紀』に、「倭香は身形麗しくて、眉目美くしかった」という記述があり、『続日本紀』にも「倭人の女なり。容姿美しからず」とある。
「眉目」は「美しい容貌」の意味であるから、「倭」とは倭香のことであり、「眉目」とは美貌という意味になる。そして『書紀』に、倭香が「天皇(後の景行)に気に入られていた」と書かれていたことは、「倭人伝」にある通り、倭香が景行天皇の妃の一人になっていたからだろう。
しかし、崇神の時代になると、「天皇家の祖神」として倭建の名は忘れ去られ、景行天皇の息子である景代が即位する。崇神の死後、倭香がどうなったのかはよく分からない。
あるいは、その頃には既に亡くなっていたか、もしくは倭建との関係はなかったかもしれない。いずれにしても、「日本書紀」「続日本紀」や『魏志倭人伝』などから考える限り、倭香が景行天皇の娘ではなく、景行天皇と血縁関係があったかどうかは分からないが、崇神の娘である倭姫と同じ一族の者と考える方が妥当だと思う。そうすると倭姫や「倭人伝」に出てくるような倭の王族は、景行天皇や景行天皇の息子の景代の子孫ではなく、景行天皇や景行天皇の息子や景行天皇の息子の孫の誰かということになるのではないか。
「倭人伝」によると、倭建の妃の媛磐子は景行天皇の娘となっているのだから、倭建の娘が景行天皇の娘になったとしてもおかしくはないのである。そして、倭の王家には、倭姫や倭の王族である吉備氏の他にも多くの皇族の男子がいたのである。
『書紀』によると景行天皇が五十一年に崩御した後、天皇の息子は七歳で、皇女は二十歳で亡くなり、天皇の孫で、皇太子だった倭建の子も二十五歳で亡くなっている。そして天皇の弟たちも亡くなったり重病にかかったりする。
『瑠璃色の天』『瑠璃の天』でも述べたように、『古事』では景行天皇の孫の雄略帝を次の天皇に推したが、『記紀』は、景行天皇の子で皇太子であった武寧王の子に皇位を継がせている。
そこで『日本書紀』では、武寧王が即位した後すぐに、雄略天皇が死んでしまい、「倭漢三才図会」に載っている雄略天皇像を見ると、頭に一本角が生えていて牛のような感じだ。そこで、私は、「倭漢三才図会の言うように雄略天皇は実は雄渾ではなく牛に化していたのだろうか」と考えてしまった。それで私は、『書紀』に、景行天皇が五十一年に亡くなった後、天皇の娘が三十四歳で亡くなったことが書かれているのは、実はその年に生まれた皇子の年齢が若かったからではないのか、と思ったのだ。
それなら、「日本書紀」の記述とも一致するからだ。また『書紀』には、「倭武が大和を去って筑紫に行く時、熊曾を撃って大便をした(中略)この時に、尿が湧き出て池ができた」
『六国志』の中で一番よく出てくる地名は、魏の都の洛陽の南に「陳郡」があり、その近くに「長平(ちょうへい)」という場所がある。『三国志』では曹操(武帝)が賊将の張飛を討ち取ったのが「西平の戦い」で、その時の賊軍の大将の「張」というのはこの地名から取っているのだが、ここではこの「陳平(ちんぺい)」のことを書こうと思う。この『旧唐書』にある地名は、「陳平の地は黄河の西にあり、東は東河に連なっている。長さは八里、幅は広い所で二千里ある。北は秦嶺山脈に接し、南は低い谷になっている」
「書経」によれば、「天子、夏は長安を出て東に向かい、東の国境に至り、始めて相望んで号泣す。故に東の者は天子の流義を聞く」
「史記」によれば、周の時代になって初めて殷の時の領土が分割されて、現在の中国東北地方の東・沿海地方にあたる河北と長江流域の西部にあたる楚が分かれたという。この二つは、どちらも同じ周に属する邑である。
しかし春秋時代になると、東と西とが対立し、やがて争いが起こる。それが戦国の世になり、東・楚が戦いを始める。この戦国時代が終わる頃には、既に周王朝は滅びており、この周は春秋五覇の一人である趙の国の太祖趙公となった商によって興った国なのである。
ところで『晋書』には、「宋の時代には天下が乱れていた。呉の文侯が死んだ。文侯の妻である潘氏が皇后として立った。呉の国には武人がいなくなった。そこで諸侯たちは武人を請い集めて、これを宰相とした。これが後に魏王になる范文虎(はんぶんこ)である」とある。これは「戦国の四姓」と呼ばれる四つの氏族のことだ。
このうち最も有力だった「魏氏」
の始祖となった魏王登は、紀元前210年の頃に、越の国から亡命したと言われている女真族の人である。
「魏」という名字は女真の「金」族の名前であり、「魏」は「金の国」を意味するそうだ。女真族は、「匈奴」、「契丹」と共に北方民族の三蛮と呼ばれたこともある。女真族のうち、最も勢力があったのが、女真語を話した人々で、彼らは金語を話すようになった人々を圧迫し迫害したという。そのため女真語を使う人は少なくなり、現在に残っている文字は女真語の表音文字の漢字だけになってしまったと言われるほどだ。
『新唐書』や『隋書』では、この金の女真の人の子孫である「虞」という人物を祖として、「虞」を「高」そして『魏志』の魏王登の父の名をとって「魏」という国名になったのだという。『晋紀』によると、『魏志』にいう虞とは金国人の名であるが、これこそが魏王の先祖であるという。だから『魏志倭人伝』に出てくる倭建の妃の遠の字は、実は「虞」であったのかもしれない。
「魏」が「虞」を「虞」と書いているのだから、そう考えるのが妥当だろう。
しかし『書紀』では、雄略天皇の崩御の後に生まれた武寧王は、皇太子ではないものの、天皇の子として、景行天皇の娘を妃として娶り、その子供が雄略天皇となると書かれている。
『魏志倭人伝』によると、「武安国と武烈天皇(倭建の弟)」という風に解釈する。
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