第4話
また、崇神は『古事記』で語られているように崇神の父である「イザナギノミコトの尊」と「オオモノヌシノカミ(大国主)」の娘「トヨミハラヒコタケウズメノカヅチ」の間に生まれた最初の男子であったから、この最初の王子は「崇神」と名付けられたのだという。そしてこの最初の王子を二代目の王とし、三男を三代目の王にしようとした。この考え方が後の皇室の考え方である。つまり、天皇は「家」という考え方である。だが、神武天皇が即位したとされるのは、崇神よりも後の時代である。そして神武天皇は「天皇」ではなく「王」と呼ばれるべき人物だと思われる。
ところで、倭建は倭建命と書くこともある。また、倭香は倭香野枝とも書く。倭香野枝の「倭」は、倭建の「倭」と同じ意味だと思われ、つまり倭建の子孫が倭香だとする説も成り立つのである。
ここで気になるのは、倭建の妃が「倭香」という名であるということだ。これは、「古事記」では「香」は「か」と読むが、音読すれば正しくはなく、「こう」「しかゆ」と訓読みするべきだとしているのだが、これも『魏志倭人伝』に登場する「東夷伝韓人種条」にあるとおり、朝鮮には音が通用しなかったようである。そこで私は、もし『古事記』や『風土記』で語られる話が本当だとすると、倭建と倭香は兄妹だったという説は成立すると思っている。
さて話を元に戻そう。
倭人伝は『日本書紀』と違って、「邪馬台国は畿内にあった」と記しているし、崇神天皇の治世は、記紀に書かれているよりもかなり長かったはずであるし、『古事記』と『日本書紀』とでは崇神天皇の没年月が違うし、それに『魏志倭人伝』の原文は「親魏倭王 金印勅書」であり、「皇帝の印章のある手紙を授ける」という内容だから、この「書紀」に載せられている内容には信憑性があるだろう。そして、
「魏志倭人伝」の『倭人伝』の文章の中に、次の一文があることは、この記述を真実であると仮定しなければ成立しないものだと言える。それは、「魏志倭人伝」の第五十七条のこの部分である。
五十七条
「南無不可思議城池。方寸、千余里、居倭州、海中有大陸、其の上、男女、皆帯倭人也。」
つまり、「倭」が国名で、「洲」が県もしくは市といった都市、あるいは国家を示す言葉として使われており、倭は国、州は地方、「島」が小島、「男女」が国民、「皆」がみんな、即ち全ての人々ということになり、よって倭とは、一つの大きな国という意味なのである。
『日本書紀』では『魏志倭人伝』の内容を書き換えている可能性があると書いたが、このように『魏志倭人伝』の文章を引用した「倭人伝」の内容に照らし合わせれば、「倭人伝」に書かれていた「邪馬台国が九州にはなかった」ということは『日本書紀』の記述は正しかったと言えるのだ。なぜならば、「魏志倭人伝」の原文の「女王国在百三十国、男国王在七十国、倭地不見海」の部分を『日本書紀』の「天皇家の遠祖」という言葉に置き換えただけなのだからである。
倭人伝の言うところの「倭国」とは、「邪馬台国」のことであった。その邪馬台国とは、邪馬台国の邪は、倭の和と同じで、「やまと」のことであり、「倭」とはもともと「倭の国」、「日本国」のことだったのである。
また倭人伝は、六世紀に編纂された書物であるとされているのだが、六世紀は「倭」という漢字の「八」という部分が分解されて、「糸(しい)」になっている。これは、大和王朝にとって「倭」が忌むべき字だったということを意味しているのではないか。ところで、崇神・垂仁天皇については『日本書紀』や『続日本紀』、『日本書紀注解』などに詳しく記されているが、倭武と崇神についてはあまり詳しいことが分からない。そこでここでは、倭建が何故「日本」に来たのか、崇神がどういった人物であるかということについて述べていくことにする。まずは崇神の方から。
「日本書紀」や『続日本紀』によれば、『倭人伝』にあるような伝説上の英雄ではなく実在の人物で、景行天皇の子である。また「倭人伝」によると五十歳だが、『日本書紀』『続日本紀』には「四十四歳で死んだ」とある。しかし、景行天皇の死後の天皇の系譜を記してある「三代実録」では、景行天皇の息子が景代天皇であるとされ、「倭人伝」にも書かれているように、倭建の子には景媛、景媛には大倭姫という二人の娘がいたと記述されている。この二人は、共に倭建の孫娘である。そこで私は、「倭人伝」に記されている倭建の娘を倭香とした場合の「倭人伝」の本文が示す内容に即して、「景行天皇の皇子が倭香であったとするなら……」と考えた。
つまり、倭香と崇神は兄妹ではなく、倭香は倭建の娘ではなく倭香は「倭人伝」に書かれたように崇神の娘であったということだ。それならば、崇神が即位前に亡くなったという話も理解できるからだ。ところで、「書紀」にいう崇神は景行天皇の子で、しかも景行天皇の子が崇神一人であったとは限らないと思うのだが、これについては次の話を読むことで分かるだろう。そこで、次はその話の中身について書くことにしよう。
景行天皇の治世の間に、大和王朝の初代とされる神武天皇が即位したのだから、神武天皇は倭建の子孫だったことになる。そして、神武天皇は景行天皇が即位した二年後に亡くなってしまう。神武天皇が亡くなる少し前に、天皇は崇神に皇位を継がせたいと思っていたようだ。
『天聖』は崇神の先祖を倭建とし、『古事』では崇神を倭建の子孫としているが、どちらも倭建の末裔としている点は一致しているものの『書紀』には崇神が「倭建の曾孫」であると書かれていることからすれば、「書紀」の方がより正確だったのだろう。『日本書紀』には、「天皇之父為天皇也。天皇亦之子也」と記されている。
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