第3話
この反乱には、倭人や倭人系の渡来人が深く関わっているようだ。そして、倭人伝には、倭人に関する様々な事柄が記載されている。
倭人は、日本民族の原形であるという。そして、古代日本人は朝鮮半島南部に住んでいたが、邪馬台国の時代になって、大和朝廷の支配下に入ったのだという。
「魏志」によれば、倭人とは、「顔立ちは白く、目は小さく、眉毛は薄く、鼻筋は通り、歯は門歯が多く、口は小さかった」とある。これは、朝鮮半島南部の伽耶人の特徴でもある。
『日本書紀』では、大和朝廷の勢力が朝鮮半島にまで及んでいることが述べられている。
『古事記』では、大和朝廷が朝鮮半島まで支配していたとは書かれていない。
そして、倭人は韓族とも呼ばれ、朝鮮半島から北九州に移住した人々であるとされている。
「魏志」によると、漢委奴国王(または狗邪韓国王)金官国(もしくは帯方郡王)は「倭の五王の一人で、卑弥呼の後継を称する倭の女王、大夫の帥升が、景初二年(西暦一六〇三年)に使者を送った」としている。
この倭国の盟主は、後の崇神天皇(または倭迹迹日百襲媛の子の垂仁天皇の可能性もある)だが、この人物の名は記されていない。「書紀」でもこの人物の名前は出てこないし、「新撰姓氏録」にも、崇神天皇が卑弥呼の後継者であるという記載は見られない。
また、「新撰姓氏録」には、物部氏の傍系について、
「姓は和穂で、味酒の造の祖先、和穂氏と同じ」
という記事がある。
この和穂氏は「日本書紀」
の神武天皇の御子である高皇彦より以前に遡る系譜である。そしてこの「書紀」での言及の順序に従えば、倭人の始祖であるはずの倭建王子は「新撰姓氏録」に登場しないという奇妙な事態が生じることになる。そして倭建と穂積は、親子関係であるとも兄弟姉妹であるとも言われており、兄弟だとする説もあったりする。その辺の事情は、倭武と倭香の兄弟や兄弟という説にも通じる。つまり、「古事記」では「倭建」という名が記されているが、「日本書紀」には一切記されてはいないからだ。
そこで私は、「日本書紀」の編纂者は、倭人伝に書かれている「倭人の始祖」を、倭人の王である倭健の王子である「倭武」と書きたかったのかもしれないと考えている。しかし「古事記」と矛盾する可能性があるために、倭人伝の内容を書き換えざるを得なかったのかもしれないと……。
『日本書紀』は、「日本書紀神代巻の初め」の神話の章の中に「神倭伊波礼毘古命は天磐船に乗りて天降れり」というくだりがあって、この天降りをした倭武は神であるとされ、『古事記』や『風土記』などの日本の歴史書の中では最高神の天照大神よりも上位に位置することになっているのも興味深いことだ。
また、『古事記』の神話において、「ヤマトタケルノミコトは東海の國へ赴く時、筑紫国の橘の小戸の阿波岐原に至り、その水にて御身体を洗うと、穢れたる身体が清められた。それで『古事記』は『草薙剣』と命名し、『日本書紀』では、『倭布帛之珍貴能事故、取名之可知、亦有此物也』と書いた」とある。これは、「日本書紀」の注釈本には「小戸の津」と書かれているが、『出雲国風土記』(神代巻)に「小戸村」という地名が出てくるところから、これが現在の島根県安来市揖屋地区のことであることは間違いない。そして、この「倭建の命は、尾張・美濃の国で死んだ」という話が倭人伝の記事の内容に一致するのだ。そして、「日本書紀」編纂者がこの話を参考にして、大和朝廷の権力を知らしめるためにこの記述を加えたのではないかという考えは成り立たないだろうか? さらに面白いのは、『日本書紀』によれば、この倭武の子孫は「天皇家の遠祖にあたる」(第十代崇神天皇、第九十一代垂仁天皇の二人のこと)という。この二人は共に崇神朝における事実上のトップで、崇神が父系の初代、垂仁が母系の初代であると言われている。
『魏志倭人伝』によれば、倭人は倭武の末裔だとされているので、これらの記述が一致しているのだ。この二人こそが本当の意味での日本最初の王者なのだ。『日本書紀』によれば、「天皇家の祖は、この倭武とその子であり、天皇はその子孫に当たる」ということになっている。つまり倭人というのは倭建の末裔ということになる。倭人=倭人は『魏志倭人伝』の記述どおりだったと言える。
「書紀」は、「倭国」という言葉を使っていないが、倭国は倭人とは全く別のものであって、「倭」とは、古代日本語でいう所の「やまと」のことであり、倭とは倭建の末裔という意味のはずだからである。だから「魏志倭人伝」に書かれていた「邪馬台国は九州にあった」という倭人の国とは、倭国のことで倭人とは違う国なのである。
また、『日本書紀』によると崇神天皇は、倭迹迹日百襲媛の子、つまり倭建の皇子であるとされているが、その百襲媛は崇神天皇の妻となって天皇を生むが、倭迹迹日百襲媛と崇神天皇の夫婦関係には疑問が多いので、「倭」
とは倭建の末裔の意味であるとするならば、倭建の妻は「姫」なので、「ひめむすめ」すなわち「ひめのまぐろ」が「ひい」となり、このヒメムツオのヒメの漢字が、「媛」に当てられるのではないかと考えられる。
なお、「倭人伝」にいう卑弥呼(あるいは「大倭女王卑弥呼」)については、卑弥呼の墓と言われるものが佐賀県(福岡県に近い地域)と長崎県に存在するので、「倭国」の中心は、北九州説が正しいと思うのだが、それなら「書紀」や「続日本紀」、「日本書紀」の編纂者は何故「倭人伝」にあるような「倭国の都は畿内」という記述を入れなかったのか。それはやはり、大和朝廷の威光を倭国に伝えるためにそうしたということではないだろうか。
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