第2話

この箇所を読んだだけで、「古事記」の素晴らしさが理解できると思う。「古事記」の「天孫降臨」の項目でも触れたが、「日本書紀」は、成立年代が古く、「日本書紀」が書かれた頃には既に存在していたと思われる古い情報をそのまま引用しているからである。


ただし、『古事記』と『日本書紀』の内容には明らかな差異も見られる。


それは、「古事記」においては、アマテラスがイザナギと婚姻を結ぶという形になってはいるものの、実際には、「日本書紀」のような血縁関係に基づく結婚ではなく、

対等の結婚であるという点である。つまり、「古事記」においては、夫婦が同格という形になっているが、『日本書紀』においては、男女が別である。


しかし、「日本書紀」においても、『日本三代実録』の記事などから推せば、『古今和歌集』撰者の在原業平に思いを寄せる、

光源氏をモデルにしたような、藤原定方の娘との婚約話はあったと考えられる。

だが、最終的には実現することはなかったようだ。


このように、日本の皇室における恋愛関係については不明な部分が多いのだが、

『史記』に登場する前漢の武帝の妹、劉向は、「五経正義」と呼ばれる著作において、「皇帝が臣下の女性と密通するのは、国家のためにはならない」と戒めている。


このことから考えて、「古事記」もまた、「天孫降臨」の部分だけではなく、「日本書紀」と同じように「天照大御神」から「神武天皇」までの流れを、「古事記」が記す形で成立したものであったかもしれない。


ちなみに、「古事記」が成立した年代はいつ頃か? これは諸説あるが、大雑把に言って七一〇年から八〇〇年までの間であろうと考えられている。


そして、「日本書紀」が作られたのが六二八年のはずなので、「古事記」が「日本書紀」以前の歴史書だというのは確かだろう。


『日本書紀』は「古事記」に先立って編纂されたものだから、『古事記』、『日本書紀』共に編纂される以前の歴史は記されていない。そこで問題になるのは、大和朝廷以前に日本列島に存在した人々の歴史である。


『三国志』では、「魏志倭人伝」で邪馬台国の東にある国として記されている、狗奴国が朝鮮半島にあったとされているが、「倭国」とは書かれていない。


そもそも、倭国というのは大和朝廷の支配領域内にあって初めて成立する名称であり、九州を中心とした古代の日本全体がその範囲であったと言えるのだ。


したがって、もし当時の日本列島に他の古代王朝が存在したとすれば、「古事記」、「日本書紀」のどちらかで記された内容がそれに相当するのではないだろうか? そこでここでは、「古事記」もしくは『続日本紀』(ともに奈良時代に成立した歴史書)に記されているのではないかと推測される、その王朝の名を挙げておくことにする。その名は、「箸墓」、またはその付近に位置すると思われる大陵(オオトノ・おおいぬの神)だ。


このどちらか、あるいは両方に、卑弥呼の後継者を名乗る「纏向日代宮」が登場する。


まず「箸墓」であるが、ここに登場する「纏向日代宮」は、実在した人物の名前なのか地名なのかは不明である。


「古事記」と「新撰姓氏録」では、「ヒナタ」という名が共通しているため、「ヒメ」という女性と何らかの関わりがあると考えるのが一般的ではあるが、「ヒナタ」という人名自体は珍しくないし、「古事記」の方には、「日神女」という名もあるので、「ヒコ」「フミ」などと同様、個人を特定するものではないとも考えられる。


次に「大穴持命」(オオアナモチノミコト)、「別名、多爾理太邇牟禮彦命とも書く」というこの人物が、奈良県桜井市の三輪山周辺に存在していたらしいのだが、「古事記」にも「日本書紀」にも全く名前が記されておらず、何者だったのかは定かではない。

この人物はヤマト王権の重要人物であったらしく、『日本書紀』には、大物主大神は大己貴命の王子であるという記述があることから、これが大国主の命だと考えると、その娘と結婚したのは、その夫である多邇具久ではないかと言われている。また、多邇具久の子、

多武峰が丹波国に居たという言い伝えがあり、

ここに「丹波王」という肩書を持つ崇神天皇がいたという記事が、「続日本紀」に存在することから、「丹波国」は、元々は大和とは別の王国であって、「丹波国風土記」などにも、「大和の国には女王の住む国があって、それは丹後の方に通じていた」と記されている。


そして、「延喜式」の神奈備郷にその国名が記されているのは、丹後に隣接する地域、すなわち現在の福知山市一帯であった。


したがって、「丹波」という呼び名は、「大和国の分地=分国=小国」のことを意味したものだったと考えられるのである。


以上は、「古事記」と「日本書紀」の記述を基に考察したものであるが、これらの内容はあくまでも可能性に過ぎない。他にもまだ有力な候補地が存在する。それは「大陵」である。この名は「古事記」の倭文神と「書紀」の倭健天皇と共通するものがあるのも興味深い。


さらに注目すべきは、「倭迹迹日に百襲姫を娶る」とされる倭迹迹日百襲媛と、その子が、大碓皇子と小碓兄弟という話や、二人の皇后の間にできた子が雄略大王だったという話なども伝えられている点であろう。


そして、これらの出来事は、『魏志』「東夷伝」倭人の条に書かれているものとほとんど同じものである。「魏志」において、


「東夷傳曰……大倭種自天の下至今度有耳長髪之人也……其身長六十余丈、容貌甚異なり……」


と書かれている倭人とは、倭人が大和朝廷の支配者ではなくて、もっと古い支配者層の子孫であった場合を意味していると考えていいだろう。そしてその先祖というのが「オオトノ」と呼ばれる一族なのではないかと思われるのだ。


このように、「日本書紀」、「古事記」以前の歴史書の存在の可能性を示す根拠としては、「倭人伝」の記事を挙げれば十分だと思う人もいるかもしれない。


しかし、『三国志』の著者陳寿自身が述べているように、中国正史の中の「三國史記」と「四部曲」の内容は必ずしも一致しているわけではないし、「史記」の成立後に書かれた「晋書」、「隋書」などでは、その記述にかなり修正が加えられているので、鵜呑みにしてもいいものかどうかは分からないのだ。


「三國史記」における「倭奴国」、「百済本記」の「加羅」「高句麗」、「広開土王碑文」における「末羅国」等のように、それぞれ別の国のことが書かれている場合もあり得るのだから、注意が必要である。

しかし、日本の歴史書は中国の歴史を模倣して作られたものなので、日本の歴史書に記されなかった情報として、あるいは中国の歴史書に記された内容を補完するものとして、倭人の記録が何らかの形であったのではないかという考えもありうるであろう。


『三国志』においては、公孫龍という男が後漢末期の混乱期に反乱を起こしたと記されているのだが、彼は後に劉備玄徳によって討伐されている。

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