歴史という名のファンタジー
みなと劉
第1話
「魏志倭人伝」にも、卑弥呼は邪馬台国の女王として記録されている。
しかし、この記録は、中国の正史に記された歴史ではなく、日本の古文書から得られた情報である。その根拠となった資料が、卑弥呼の死後に、魏の国へ送られた親書であった。
当時の倭国には、五つの大国があった。その一つが、邪馬台国のあった九州であり、他の四つは大和と筑紫である。
その四ヵ国を治めていた王たちは、いずれも男の王で、女王はいなかった。
ところが、西暦二〇九年に、中国後漢の光武帝から親書を受け取って返信する役に選ばれたのは、なんと、倭国の王ではなく、女王卑弥呼だったのだ。
この事実について、中国の歴史書『三国志』に詳しい記録が残されている。
西暦一八七年、当時、漢帝国の東の国境を守っていた張飛という武将がいた。
劉備玄徳とは従兄弟にあたる人物である。
ある日のこと、張飛は皇帝劉協に対し、「陛下は、なぜ皇后をお立てにならないのか?」
と尋ねた。
すると、劉協は答えた。
「余はまだ若く、そのようなことを考えられる状態ではない」
これに対し、張飛はさらに言った。
「陛下の御齢は既に十八歳、十分に成人しておられますぞ」
そこで劉協は、「では、どのような女人を皇后に迎えればよいと思うか?」
と張飛に訊ねた。
「それは陛下ご自身が御判断なさることです。ただ、私の見るところ、やはり、女性には知性が必要ですな。それも、ただ頭が良いだけではなく、賢い頭脳を持っていることが条件でしょう」
劉協はこの意見を取り入れることにした。そして、張飛の意見に従い、魏の国にいる聡明な人物を探して呼び寄せることにした。
やがて、張飛のもとに、一人の女性が連れて来られた。
彼女は、年齢二十四歳で、名を壱与といった。
壱与は、劉協の前に進み出ると、こう名乗った。
「私は、遠い異国の地にある魏という国から参りました。どうか私を、あなたの后にしてくださいませ」
これに驚いた張飛は、劉協の前で、思わず声を上げて笑ってしまった。
なぜならば、彼女があまりにも無知だったためだ。
だが、劉協も、張飛と同様に驚いていた。というのも、彼はまだ若いとはいえ、すでに立派な成年に達していたからだ。
一方、壱与の方は、自分の発言に対して笑われたことを知り、憤慨した。そのため、彼女は、すぐさま立ち上がって部屋から出て行ってしまった。
その後まもなく、壱与が妊娠していることが判明した。
しかも、その子供は男の子だった。
劉協は大いに喜び、彼女を正式に皇后として迎え入れることにした。
こうして、後に霊帝となる劉弁が誕生することになったのである……。
このように、『三国志』に記されている出来事は、明らかに史実とは異なるものであった。
つまり、この話は、日本が誇る正史(中国の史書)ではなく、それに先立つ時代の文献に書かれた情報を、そのまま引用したものである可能性が高いのである。
その証拠の一つが、壱与に関する記載である。
正史によれば、卑弥呼の後継者となった壱与は、邪馬台国の都の近くにある山に登って、そこから使者を送ったとされている。
ところが、『三国志』には、そのような記述はない。
また、正史の記述によると、卑弥呼は、邪馬台国の女王として君臨していた期間は短く、壱与が即位した時点で、既に亡くなっていたということになっている。
しかし、正史の記録にはないが、その死後、壱与は即位し、女王となっているのである。
さらに言えば、正史の倭人伝には、「魏志倭人伝」のような、卑弥呼の後継者に関する記述もない。
にもかかわらず、『三国志』の倭人伝では、壱与こそが女王であると明確に記されているのだ。
これは、正史が編纂される前に書かれた『三国志』だから可能なことであり、もしこれが正史であったならば、このような間違いが起こるはずがない。
以上のことから分かるように、正史は『三国志』よりも後の時代に成立した書物であるため、当然のことながら、その内容にも大きな誤りが含まれている可能性がある。
そこで次に検討したいのは、「古事記」と「日本書紀」の内容の違いについてである。
「古事記」
は、初代神武天皇の誕生から、ヤマトタケルノミコトの活躍、スサノオの命による国土平定までを描いているが、
「日本書紀」
は、神武天皇の即位から、持統天皇の代に到るまでの歴史を記している。
この両者の違いは何か?
「古事記」が、大和朝廷の勢力範囲で編纂されたのに対し、「日本書紀」は、天武天皇によって、それまで大和朝廷の支配領域外であった近畿圏で編纂されたためであろう。
この二つを比較すると、「古事記」の方が、はるかに内容が詳細かつ詳しく書かれていることが分かる。
例えば、「天孫降臨」という項目がある。
この項目の冒頭は、
「……天照大神の孫ニニギノミコトは、日向の高千穂宮において、豊葦原の中つ国に降りたまい、ここに御笠川を下られた時、八尋鰐魚之鼻鉤を取りて、天の香具山に降り注いで、その頂きに成りませる神の名は、天照大御神……」
と続いている。
一方、「日本書紀」においては、
「……高皇産霊尊が御子、伊斯許理度売命、亦の名を天忍穂耳命、乃ち詔りたまはく、汝此に降れと、時に八尺瓊勾玉、天の八重雲を、伊斯許理度売の命に授け賜ふ」
と続き、その後、神武天皇に至る。
この二つの違いが何なのかというと、「古事記」では「天孫」と記されているところを「天忍穂耳」と記している点にある。
「天孫降臨」という項目については、他にも大きな違いが見られる。
「古事記」では、
「……天の御柱を巡りまして降り給いし御子は、宇摩志阿斯訶備比古遅の神の子なり、
名を天邇岐志多加美の命と云ひて、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御祓へしとき、天の羽々斬の剣を抜きて、
頭髪も、服も、身体も皆白うなれる故に、其の名を改めで、天の浮橋に立ちて、
下津磐根に立たむとしけるときに、身は軽やかなりけりとて、高く飛び上がりて、天の沼矛を手に持ちて、掻き回し奉りければ、底に着きてかき出づる時に、矛の先より滴り落ちたる物の中に、十掬の剣あり。
これを持ちて、また天の安の河の上の方に漂いて行き、手に持っていたる布を解きて、水に浸けて引き上げれば、布は綿となりぬ。これを取り巻いて天の岩屋に入り、天の逆鉾を手に取りて天の香具山の山頂に登り、天の香具山に座りて、天の安の河を下に見て、天の斑駒を乗り継きて、その道の遠のくままに、八百万の神々を集め、集まらぬ神々は、人を見てば恐ろしく思えて、隠れ坐せる。是を幸ひ、天の沼矛を手に取りて、かき回して、潮の満干をなし、天地を造り成す」
と続く。
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