月の建設

おなかヒヱル

第1話

旅行で訪れたアラビア、駱駝らくだから降りた男は籐椅子とういすに腰かけて煙草に火をつけた。

そして、女子高生のわたしにゆっくりと昔話をはじめた。

砂丘のてっぺんに満月が現れ砂の蠍を照らす。

ターバンを巻いた商人はひとり、イラムを目指す。

幻の都は眩いばかりの光、世界中の嗜好品が軒に並べられバザーを彩る。

かつて地方の小国にすぎなかったこの都を、列強諸国に比肩するまでに発展させたのは当代の王。

都の中心に聳え立つバベルをも凌ぐ尖塔は雲よりも高い。

漆黒の甲冑に身を包み、聖剣と謳われるズルジャンダルを佩刀する壮年の男、王は家臣である科学者の話に耳を傾ける。

「王様、濾過した海水を都に引く手筈が整いましてございます。これでイラムの民は、未来永劫飢えることはございません」

王は満足そうに頷いた。

それを見た科学者は一言付け加えた。

「科学に不可能はございません」

余分だったかな、と科学者は思った。

気分がいいとつい余計なことを口走る。

悪い癖と思えど、今更直すにはもう若くない。

「陛下、お話しがござりまする」

銀の甲冑にターバンを巻いた口髭の男、月光とどかぬ暗がりからぬっと現れた。

「イラム制圧より早五年、目覚ましい発展もひとえに陛下のお力の賜物と存じます」

「世辞はいい、用件を言え」

「では、単刀直入に。陛下、そろそろ月をお祀りくださいませ。このアラビアの歴史上、月を祀らなかった国が繁栄した事実はありません」

王の肩が小刻みに震えた。少しして哄笑が起こった。

「あっはっはっはっはっ、お前の目は節穴かロレンス。この五年、いったい何を見て来たのだ。広大な砂漠にぽつんとあるような小国だったイラムを、世界に類を見ない大国に育て発展させたのはこの私だぞ。軍事、商業、そして農業。これからのイラムは緑も豊かになろう。たった今、科学者から報告のあったとおりだ。なぁロレンス、お前の武勲は誰もが知っている。お前がいなかったら今のイラムはなかったかもしれぬ。私は感謝している。だからあまりガッカリさせてくれるな。もう迷信の時代ではないのだ。これからは科学の時代だ」

俯いたロレンス、絞り出すように言葉を紡いだ。

「かつて砂漠に栄しイラムの都、中心には天まで聳えるバベルが鎮座し、食や娯楽まであらゆる文化が花ひらいた。世界中の商人はイラムを目指し、人々は誰もがこの都に憧れた。しかしその栄華は長くは続かなかった。王が月を祀らなかったのだ。歴史は繰り返すいくさの波。その都度、勝者は月を祀った。月は神の伝説、王たちは降り積もった叙事詩を信じた。しかし異端児、稀に例外の王は神を否定する。神など居はしない。古い話はやめろ。国が滅びる時、必ず狂信の王現る。そしてどこからともなく笑い声が聞こえる。先代の王、つまり陛下が制圧したこのイラムは、月を祀っていなかったのです」

「あっはっはっはっはっ、面白いな。だから負けたというのか、違うな。かつてのイラムは弱いから負けた。先代の王など弱小の貧乏人だったではないか。この国を繁栄させたのは私だ。先代のイラム王でもなければ月でもない。それに笑い声とはなんだ? そんなものどこからも聞こえなかったぞ。わかったらとっとと下がれ。私はまだ、科学者と話があるからな」

ロレンス、俯いたまま暗がりに消える。

「王様、都の再開発の件ですが……」

科学者はロレンスが退室したのを確認すると王に近づき耳打ちをした。

静寂に包まれた夜は幽かな音も逃さない。

科学者の声は扉の外で聞き耳を立てるロレンスに聞こえていた。

佞臣ねいしんめ、陛下をそそのかしおって」

話の一部始終を聞いたロレンスは、そっとその場を離れた。

同時刻。王の行く末を案じるもう一人の人物であるきさきは、奢侈しゃし品に囲まれた自室で編み物をしていた。

灼熱の太陽が照りつけ四十度を超える昼間のアラビアも夜は零度を下回る。

妃は貧困の出だったが、所狭しと並べられた贅沢品になどいっさい興味がなかった。

ただ黙々と、絢爛豪華な室内の片隅で編み物を続けるだけだった。

そこへ王が現れた。

「まだそんなことをやっているのか。まぁいい、こっちへ来い。お前に着せたいものがある」

侍従は王の足元に鰐革わにがわの鞄を置いた。王は鞄を開けると純白のドレスを取り出した。

「さぁ、早くこっちへ来い。これを着て見せてくれ。シルクのドレス、極東の国よりの貢物だ」

妃は編み物を中断すると、渋々王の傍に立った。

そして全裸になり、純白のドレスを纏った。

「似合う! 似合うではないか!」

黄金の彫刻に縁どられた姿見、二人は記念撮影でもするかのように鏡に向き合った。

「そう浮かない顔をするな。ほしい物はなんだ? ダイヤかエメラルドか? 何でも手に入るぞ。遠慮なく申してみよ。さぁ、妃」

「わたくしは何もいりません。ダイヤもエメラルドも何も。ただ昔のように、あなたと砂漠を旅したい。太陽が照りつける昼間は水を求め、夜は満天の星空の下を駱駝に乗って彷徨う。疲れたら砂の上であなたの肩に寄り添う。わたくしはただそれだけでよかった」

「そんな生き方がいいわけがない。水一杯、今日食べる物も覚束ない人生になど一片の価値もない。ほしい物は全て手に入れる。さぁ笑ってくれ、昔のように。もう一度、お前の笑顔を見せてくれ」

王は妃の肩に手を置いて鏡を凝視した。その両手は少し汗ばんでいた。

「わたくしにとっては、どんなに高価な黄金よりも夜空の星が尊かった。どんなに綺麗な宝石よりも、あの月が美しかった」

天窓から射し込む月光、王と妃の二人を照らす。

「お前も月のことを言うのか。あんなもののどこが美しいのか。何かの目に似ている。見られているようで虫唾が走る」

王は月を睨みつけると足速に退室した。

去り際、

「お前は変わってしまった。それが証拠に、昔のように笑わなくなった」

明朝、王の間。

居並ぶ家臣たち、玉座の隣には科学者の姿。

イラム王は語りはじめた。

「私がイラムの王となりて五年が経つ。その間、この国は目覚ましい発展を遂げた。世界に国と呼ばれる地域は数あれど、イラムほど平和と幸福に満ちた国は絶無である。そしてまた、それぞれの国と呼ばれる地域には、神と呼称される物体だか概念だか知らぬが、祀られているな。けれども、その神が実際にどれほどの役に立っているのか、イラムの発展で明らかになったであろう。我が国は神を祀らない。神を祀っている国が神を祀っていない国に劣っている。それが答えである。この世にどれほどの神がいるのかは知らぬが、そんなものはこの時代、最早なんの役にも立たぬ。強いて言うならば、民の平和と幸福を現実的に約束する者こそが真の神であろう。イラムにおいて、その平和と幸福を約束できる者は私以外にはあり得まい。それは、この五年の私の成果を見てもらえれば一目瞭然である。この私こそが神であり、その神が王たるこのイラムこそが真の神の国である。しかしそうは言っても、この国にはまだまだ足りぬ物がある。人、食料、娯楽、自然、挙げればキリがない。これからの時代、それらの不足を補えるのは科学であろう。手始めに、この国の大規模な再開発を行う。そのためには奴隷が必要である。もっと多くの金銀財宝が必要である。近隣諸国より、それらを集めよ。蹂躙しても構わん。心配するな、諸君らには私という神がついておる。臆するな。行け、神の精鋭たちよ!」

「「「おお!」」」

完全に狂っている。

王の言葉に酔ってその気になっている家臣の中にあって、ロレンスはひとり俯いた。

科学者は王の隣でほくそ笑んでいた。

深夜、イラム軍は近隣諸国への侵攻を開始した。

電光石火で隣国を制圧するイラム軍。中には同盟を結んだ友好国もあったが、構わず蹂躙した。

未来の資源である女と子どもは丁重に扱い、老人たちは皆殺しにした。若い男は鎖に繋ぎ、中年男性は全裸にした。

一年も経たない内にイラムはさらなる発展を遂げた。

砂漠をゆく商人の隊列、その内の一人が煙草の煙をぷっと吐いてつぶやいた。

「神の国イラム、天国に反旗を翻し蛮族の国。さっさと稼いで逃げるにかぎる、天罰がくだるまえに」

王宮、天空の間。

「科学者よ、以前に貴様は科学に不可能はないと言ったな。私もそう思うのだが、ひとつ訊きたい。月はつくれるか?」

「は?」

「耳がとおいのか。月はつくれるのかと問うておる」

「月と申されますと、あの月でございますか?」

「そうだ、あの忌々しい月だ」

科学者、顎に手を当てて考え込んだ。

人生において月をつくれるかなどと訊かれたことは未だかつてない。

おそらく、人類史上こんな珍妙な質問をしたのは王が初めてではなかろうか。

「金に糸目はつけぬ。一年後の今日までにやってもらいたい。出来ねば殺す」

科学者、生まれてはじめて人に殺すと言われた。

今の王なら間違いなくやるだろう。

さっそく、科学者はアラビア中の学者に招集の手紙を書いた。

たくさんの奴隷が集められ月の建設が始まった。

一年が過ぎた。

その間、処刑された学者は百人を超えた。

試行錯誤を繰り返すたびに王の逆鱗に触れ、一人またひとりと断頭台へ送られた。

奴隷に至っては何人死んだかわからない。

ひとつの失敗で数百人が絶命したこともあった。

王は完全に狂っていた。

とくに月の出る夜の癇癪かんしゃくは凄まじいものがあった。

それでも、なんとか完成に漕ぎ着けた。

曇天に覆われた夜、科学者は空に月を浮かべた。

「おお、まさしく月。これなら本物にも引けを取らぬ。でかしたぞ!」

ホッと胸を撫でおろす科学者、やっと肩の荷が降りた。

一年前には百人以上いた学者も、今では十人に満たなかった。

甘い汁を吸うことだけを考え続けた科学者であったが、狂気に取り憑かれた王を、今はただ怖いとしか思えなかった。

「ロレンス、ロレンスは居らぬか」

「はっ、ここに」

「明日は満月だったな。明朝、精鋭を招集しろ。月に攻撃を開始する」

「月に攻撃と申しますと、どのような……」

ロレンスのターバンは汗でぐっしょりと濡れた。心臓はバクバクと早鐘を打った。

「本物はふたつも要らぬ」

背中を悪寒が奔る。ロレンスは立っているのもやっとだった。

「陛下、どうかご再考を。そのようなことをしては、取り返しがつきません」

「何故泣いているのだロレンス。人前で涙を見せるなど、武人にあるまじき行為であるぞ」

王はギョロッとロレンスを見た。その瞳は虚無であり、もはや感情と呼べるものは何も宿ってはいなかった。

ロレンスは虚空を見つめながら噎び泣いた。

「王よ、貴方は変わってしまわれた。かつての勇敢で慈悲深い貴方は、もう何処にもいない。この世界の、どこにも……」

言い終わらぬ内に、ロレンスの首がビロードに転がった。

膝から崩れ落ちる腹心は血溜まりに沈む。

王はロレンスの首を掴んで王宮の外に投擲した。

月への贄か花向けか、砂漠のハイエナが貪り喰った。

王はその足で妃の部屋へと向かった。ロレンスの返り血を浴びた衣装そのままに。

妃は編み物をしていた。もう少しで完成だった。

「まだ、そんなものを編んでいるのか」

妃は編み物を中断して王を見た。

白い衣装に付着したロレンスの血痕を目でなぞった。

「明日、私から最高のプレゼントがある。きっと気に入るだろう。また、笑顔を見せてくれ」

「わたくしは何もいりません。ただあのころに帰りたい。まるでジプシーみたいに、自由に砂漠を彷徨っていたころのあなたを愛していた」

「明日の夜、空を見上げろ。大丈夫だから。もう、何も心配するな」

翌、砂漠に翻る蛇の軍旗。

王は精鋭一万の大軍を率いて月に進軍した。

「皆の者、行くぞ!」

「「「「「おお〜!!!」」」」」

砂埃が舞った。

王を先頭に、イラム軍の騎馬隊がアラビア砂漠の巨大な満月に突撃する。

「撃て!」

ぴゅっぴゅっぴゅっ!

弓矢が月光を貫通して月に刺さる。

「囲め!」

一万の大軍団が月を包囲する。

「よし、今だ。喰らえ!」

王はズルジャンダルを抜刀、ひとり月に斬り込んだ。

「うおぉぉぉぉーーーー!」

満月に重なる王の影。

パキーン!

月は真っ二つに割れて砕け散った。

まるで流星のように、月の破片は無限の星くずとなって砂漠に降りそそいだ。

それを合図に、イラム王宮から月がのぼった。

禍々しい、瑪瑙めのう色の満月だった。

「綺麗だ。妃よ見ているか。あの新しい、本物の月を」

王は満足そうに頷いた。

「皆の者、凱歌を上げよ。あの新しい月を目印に、イラムへ帰還するのだ」

総勢一万のイラム軍、歌を唄いながら瑪瑙の月へ歩みをはじめた。

ところが、いつまで経っても目的地のイラムに着かない。

来た道をなぞっているだけで一向に先へ進まない。

歩いても歩いても、目印である瑪瑙の月は遙か遠くにあった。

すぐに帰るつもりゆえ、水や食料の手持ちはほとんどない。

いくら歩けどイラムは見えず、次第に兵士たちはイラ立ち小競り合いが生じた。

どれだけ歩いただろう、昼になり夜になり、砂漠の寒暖差が王たちの体力を奪った。

数日が過ぎ、空腹に耐えかねた兵士たちの間で共食いが起こった。

撲殺して火炙りにしてボリボリと人を喰う。

王も空腹には勝てず、聖剣ズルジャンダルを眠っている兵士の腹に突き立て人肉を喰らった。

修羅場の日々は一年が過ぎ、二年が過ぎた。そしてさらに過ぎた。

夜、ボロボロになった漆黒の甲冑を纏い、聖剣と謳われたズルジャンダルを杖にして、たった一人の王はついにイラムへと帰還した。

「なんだここは」

そこはかつてイラムと呼ばれし神の都。

落ちた天蓋は王の間を剥き出しにして夜空に晒す。

列柱は朽ち果て、ビロードの絨毯は色あせる。

町に民はおらず、鼠一匹見当たらない。

ブゥーーーンガリガリ、ブゥーーーンガリガリ……

どこからか機械の音が聞こえた。

王は音のするほうへ近づいた。

悪臭とともに、巨大な石臼挽いしうすひきはガリガリと音を立てて回っていた。

それは秒針よりも遅く、ただゆっくりとメリーゴーランドのように回転していた。

その頭上に、瑪瑙の月があった。

無数の管に繋がれたその二つは廃墟の中にあって唯一、生命を感じさせる物体であった。

王は石臼挽きに近寄って確かめた。やはりそうであった。

石臼挽きの隙間からは毛髪や指、手や足など、人体の一部がはみ出していた。

辺り一面どす黒くなっているのは血だろう。

強烈な悪臭は人体の腐敗臭であった。

人の脂や血液をあの管で瑪瑙に送って、おそらく半永久的に月を浮かべているのだ。

「あまり美しいものでもないな」

王は瑪瑙を見上げてひとりごちた。

この偽物の月をつくり維持するのに、いったい何人が犠牲になったのだろう。

王は聖剣を杖に、妃の部屋へと向かった。

いつも編み物をしていた椅子に、手紙とマフラーが置いてあった。

王は手紙を開封した。

いつまでも、あなたの帰りを待っています。

マフラーには、月光に照らされた二人が肩寄せあって砂漠に座る刺繍が施されていた。

王は最後の力を振り絞るかのように泣いた。

突然、ゴウゴウと大旋風が巻き起こった。

砂嵐はイラムにトドメを刺すが如く凄まじい強風をぶつけた。

風は竜巻となって廃墟の全てを持ち上げる。

バベルよりも高く聳える尖塔は釣り竿のように撓った。

妃の部屋の屋根は吹き飛び、王は砂嵐と黒雲が渦巻く夜空を見上げた。

無限とも思える流星が空へ舞い上がって。

あの日砕けた月のカケラ。

王が殺した満月の復活であった。

阿破破破破破破ぁーーー!

阿破破破破破破ぁーーー!

阿ァーーー破破破破破破破ッ!

阿破ァーーー破破破破破破破ァァァあーーー阿あーーーっ!!!

どこらともなく笑い声が聞こえた。

それは、零落した王を嘲笑う月の嘲笑であった。

管はちぎれ、巨大な石臼挽きは腐乱の人体とともに竜巻に持ち上げられた。

瑪瑙の月は活動を終えて真っ黒になった。

風に運ばれた瑪瑙の月が妃の部屋の頭上に来た時、砂嵐はピタッとやんだ。

マフラーを胸に抱いた王は怯えながらそこにある鏡を見た。

それはかつて、壮年の王と麗しい妃を映した姿見だった。

今そこに映るのは、年老いて絶望する一個の老人だった。

瑪瑙の月は、王をめがけて落下した。

一夜で千年が過ぎた。

男は話し終えると煙草を消して駱駝に跨がり、地平線に沈む落陽らくように歩をすすめて次第に見えなくなった。陽炎かげろうは揺れ、その方角から吹く砂まじりの風が伝えた、それは古代の物語であった。

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月の建設 おなかヒヱル @onakahieru

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