最終話

 学生たちの帰郷を祝福するかのように、汽笛が青い空と海に響く。

山の向こうに見える入道雲が、高く高く、太陽に向かって伸びている。青々とした葉の匂いと潮風が混じるような港で、モモはなぜか陣に向かって言った。

「つばめ、寝ぐせついてるよ」

「え?」

 花村とつばめが、同時にモモを見る。大あくびをしていた陣が、酸素を取り込み損ねたのか、思いっきりむせる。つばめが髪を整えようと手を伸ばすと、その前に陣がつばめの頭をくしゃくしゃにかき回した。

「早く行けよ。もう時間だろ」

「先輩に対してその口はなによ」

「そうだよ陣。モモさんがいたから、事件だって解決したんだよ」

「それは……いまは関係ないだろ……」

 モモを見送るため、港へ行くと早起きしたつばめに、陣はなぜかついてきた。一人身軽に船着き場を歩くモモと、その後ろをスーツケースを三つも抱えるように押しながら必死についていく花村の姿は、人ごみの中でもすぐに見つけることができた。海外旅行にも行けそうな大きさの、派手な配色の二つのスーツケースはモモので、標準的なサイズの地味なスーツケースは花村のものだというのは、聞くまでもなくわかった。

(こっちはこっちで、決着がついたんだろうな)

 だから、何も言わなかった。アイプチを盗んだのは、花村なんだろうということも。花村がそうせざるを得なかった理由も。モモの顔は、つきものが取れたみたいに明るく、晴れやかだったから。

「つばめが寂しくないように残ってあげるなんて、愛だねえ」

 モモは意外と、人をからかうのが好きだった。ふいに頬をなぜる風に、つばめは昨日の体温を思い出して、くすぐったくなりながら頬をかいた。

「はあ? 別に……いま帰ったら面倒そうだからだよ」

 陣がすかさず反論する。モモはけらけらと笑いながら「別にィ、だって」とまねした。花村がとりなすように二人をなだめる。そんな三人をどこか一歩引いて眺めながら、つばめは昨夜の出来事を思い出していた。

「本家の長男があんな大事件起こしたもんだから、そらもう近衛家総出の大騒動だ。面倒に巻き込まれたくないから、しばらく島にいることにする」

 雨上がりの夜。平日には珍しく、二人でラストまで働いた後、少し歩きたいというので寮の周りを散策しているとき、陣がそう言った。その時はなんと言えばいいかわからず、つばめは「そっか」とだけ返した。でも、本音を言えば嬉しいのだ。飛び上がりたくなるくらい。でも、近衛家の事情を考えると、どうしても素直に喜んではいけない気がした。だからつばめは、爆発しそうな思いに蓋をするために、妙によそよそしい態度を取らざるを得なかった。

 たぶん気にしてはいないだろうけど――と、隣の陣を見やる。感情に左右されない陣の顔、だがつばめはなんとなく、彼の喜怒哀楽を推し量れるようになっていた。

 自分が悪くないとわかっていて、謝るのはやめなさい。

 潮風に乗って、ばあちゃんの言葉が聞こえた気がした。

(もっと素直になりなさいってことなんだろうな。……でもばあちゃん、もう大丈夫だから。ここに来て、おれ、変わった)

「い、今苗さん。もうそろそろ行かなきゃ」

 さっきから腕時計にちらちらと視線を送っていた花村が、おずおずと申し出る。周りにいた生徒たちはほとんど船に乗り込んで、陸に残っている者は少数だった。モモは「はいはい」と軽くいなして、つばめと陣に向かって、気を取り直すように言った。

「じゃあまた二学期にね」

「はい! 船酔いには気を付けてくださいね」

 背を向け、踏み出しかけた足を、しかしモモは思い出したように止める。

「つばめ」

「はい」

「ありがとう」

 花が咲くみたいに笑ったから、一瞬、見惚れてしまった。花村も同じタイミングで、ぺこりと頭を下げる。モモたちは最後の最後、滑り込むように船に乗った。それから地鳴りのような汽笛を三回鳴らして、船が波真利の地を離れていく。つばめは手を振った。船が小指の爪ほどの大きさになるまで。そして、海と同化し、視界にその姿をとらえられなくなるまで、コンクリートの岸ギリギリのところに立って見守った。

「行こうぜ。腹減った」

「なに食べる?」

「そうだな、天丼でも食うか。アナゴのやつ」

「はあ。やっぱり揚げ物……」

 自分で染め直したため、少しムラになっているオレンジ頭。いまなら描けると思った。初めて会ったときは自信がなかったけれど、きっといまなら。もし来学期、また写生の授業があったら陣に頼んでモデルになってもらおう。つばめは密かに心に誓った。

 陣を追いかける前に、つばめはもう一度振り返って、海と空が交差する水平線を眺めた。目を閉じて大きく深呼吸したあと、また目を開けると、そこには青しかなかった。

 海が青い。空も青い。なにもかもが青い。

 十五の夏は、いままで経験したどの夏より青かった。

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夏はブルー、ときどきオレンジ 衣草薫 @lavenderblue

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