第33話

 明日から待望の夏休みに突入する。終業式を終えたいま、教室じゅうが浮ついた雰囲気に包まれていた。

 とはいえすべての教科のテストが返却された昨日までは、教室内は悲喜こもごもといった様相を呈していた。そんな中つばめは、「平均点を超える」というシンプルな目標ということを達成できたこともあり、心の中でガッツポーズした。赤点をとると、夏休み中に補習を受けなければならないのだ。ただそれを避けられたのは、テスト前に現実逃避で勉強に勤しんだからだと思うと、少し複雑な気分になったのだが。

 ホームルームを終えれば、今日はもう終了。バイトもなく、なにをして過ごそうか、つばめもこれからのことに思いをはせていた。

「それから……今回、学園内で起きたトラブルについて話があります」

 そんな中、つばめのクラス担任が、重苦しい口調で話し出す。その瞬間、ざわついていたクラスメイトも、冷や水を浴びせられたようにぴたりと話をやめる。この話題はいまや、この島の中で一番の関心事となっていたのだ。

 マンモス校とはいえ、理事長の孫が起こしたスキャンダルは、センセーショナルに生徒たちの間を駆け巡った。幸運にもつばめや陣の存在までは明かされなかったが、それは大部分の生徒の関心が加害者の方に向いていたからだ。ミスコン運営は解散を命じられた。しかし当該生徒に関しては、学園は真に教育の場であるべきという理事長の理念から、学校側から退学という処分を言い渡すことはなかった。

「万引きの記録が残っていたことで、警察には店舗および被害生徒から被害届が提出されました。また、賭博という特殊な犯罪性も含め、該当生徒の一部は逮捕状を持って逮捕されることになりました」

 ざわめきが大きくなる。

「これから家庭裁判所の審判を受け、いずれ刑事的な処分が下されると思われます。皆さんも衝撃的でしょうが、私個人の願いとしては、今回の件を、不良が起こしたどうしようもない事件、とは捉えないでほしいのです」

 いつも淡々と物事を進める担任が、目を伏せ、時折言葉を詰まらせながらつばめたちに問いかける。

「皆さんは、自分はまともな人間であると信じて疑わないでしょう。ですが、本来であれば踏み入れないであろう一線を越えるのは、難しいことではないのです。みなさんを篭絡せんとする不届き者は、想像以上にたくさんいる。高校を卒業し、社会に出たら、さらに多くの人と出会うでしょう。だからこそ、楽な方へ、楽しい方へと自分を誘う甘い言葉には、十分気を付けてほしいのです」

 これから配るプリントを教卓で何回も揃えながら、担任は続ける。

「一緒にいて楽しい人や場所は、人生には必要です。ですがときには、自分に批判的な人間や、馬の合わない人間といたほうが、良い結果を生むこともあるのです。快楽に流されると、人は盲目になります。盲目になると、自分自身をコントロールできなくなる。それは自分の意志を奪われることを意味します。だから、楽しいと言うだけの理由で動く前に、まず立ち止まって考えてみてください。これを始めたらどうなるか。メリットとデメリットはなんなのか。これは結果的に、誰かを傷つけやしないか、とかね。アクセルを踏み込んで、新しいことを始めるのはいい。だけどそのとき、隣にはブレーキもなければならない。それと操縦権は、常に自分が握っていること」

 難しいことかもしれませんが。それを締めの言葉にして、担任はこの話題を終えた。それから夏休み中の注意事項と連絡事項に話が移る。それに呼応して、先程の夏休みモードが教室の中に戻ってきた。だがつばめは、担任の言ったことを、新鮮な驚きを持って受け止めていた。

(近衛さんは、恭介さんたちにも、そういう人間になってほしいのかな)

 恭介たちは、これからさらに、犯した罪の重さを知るだろう。前科はつかなくても、それは大きな枷となって、記録と記憶に残り続ける。つばめは恭介に、謝ってほしいとは思わなかった。耳を覆いたくなるような暴言を浴びせられても、つばめはむしろ、かわいそうだと思ったのだ。人を必死に侮辱しなければ気の済まないところも、人を蔑み、貶めることでしか喜びを得られないところにも。

 一方で、あれほど仮屋にどっぷりと入れ込んでいたのも、どこか、ぽっかり空いた心の穴を何とかして埋めたかったからではないかとも思う。満たしてくれる何かを、必死で求めていたからなのではないか。つばめは複雑な気持ちになる。

「少し早いですが、一学期間お疲れさまでした。良い夏休みを過ごしてください」

 その言葉が合図になって、やっと解放されたとばかりにクラスメイト達が一斉に動き出す。賑やかな教室の中、つばめは窓を開けた。真夏日の外気が、冷房で涼んだ空気と交じり合う。

 眼下に豆粒大の大きさの生徒たちが、走ったり、歩いたり、じゃれ合うようにふざけたりしている。後悔も、安堵も、罪悪感も、達成感も全部、自分の中に吸い込むように、つばめは深呼吸する。

 この学園を取り囲む青い海。罰なんかではない。それをただ美しいと、陣がそう思えるように。

 つばめの願いはただ、それだけだったのだ。

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