第29話

「来てくれてありがとう」

「ジジイに急用ができたって言って出てきた」

 絶妙にかみ合わない会話は、陣の照れ隠しだろうか。

 だが再会を喜ぶ暇もなく、つばめは陣に事情を説明した。男のスマホを押収し、あとから追いかけてきた花村にその場を任せて、いま、つばめと陣はバーベキュー場に向かって走っている。

 今日は走ってばかりだ。でも息苦しささえ心地よい。

「きみが来るか、賭けだった」

 花村が言った。つばめには分かっていた。きっと趣味でもないだろう、派手な長袖のジャンパーを、七月末に着てくれた花村の気持ちを。

「つばめ!」

 スーパーの店員に事の詳細を話していると、ぜえぜえと息を切らしながらモモがやってきた。現場を見ただけで瞬時に状況を把握したらしいモモは、つばめに変わって説明係を引き受ける。

「バーベキュー場は、島の左端よ。佐倉堂のもっと向こう、ショッピングエリアを抜けた先」

 学校と警察には、あたしから報告しておくから。そう言ったモモに、「ありがとうございます」と頭を下げた。

「……ぼくも、協力するよ」

 おずおずと申し出た花村を、モモがじっと見つめる。それから「だってさ」と少しふてくされたふうに笑う。はやく行け、と手で掃われて、つばめは未だに事態を飲み込めていない陣を促して走った。でも、心の底では感づいているのだろう。いまから向かう先に、望まない人物が待ち受けていることも。

 一筋の冷たい緊張感が陣からも伝わるが、つばめはもう心配しなかった。自分の気持ちは、しっかりと伝わっている。そんな確信があった。

「スマホは、ライブ配信していたみたい。バーベキュー場で、誰かに万引きをさせて、それを見て、はあ、楽しんでいるんだ」

「そう、か……」

 陣が大きく息を吸いこみながら、空を見上げた。

「いまならわかる、恭介がなにをしていたのか」

「じ、陣? ど、うしたの」

「時間がねえ。ここのレンタサイクル借りるぞ」

「う、うん」

 途中、好きなところで乗り降りできる共用の自転車置き場に寄る。さっきまでの息苦しさが嘘のように、風を切って走った。佐倉堂を通り過ぎ、さらに海と森が交差する道を進む。いつもは人影など感じないが、テスト明けかつ夏休み前の浮かれムードは、こんなへき地まで届いていた。やがて風に乗ってやってくる、肉の焼ける香ばしい匂い。

 バーベキュー場は、それ専用に作られたスペースで、百名以上は収容できる、海を望む広いテラスのような場所だった。入口の前で、自転車を止める。いくつかのグループがそれぞれ距離を保ちながら、おのおのバーベキューを楽しんでいた。

「……いた」

 見覚えのある、傲岸不遜な顔。例の黒髪マッシュもいる。皆一様に、スマホをにぎって話している。時折聞こえる、野獣のような笑い声。陣が、しぼりだすような声で言った。

「賭けだよ。恭介は、賭けをしているんだ」

「賭け……?」

「万引きの結果を、賭けの対象にしているんだ」

 陣がなにを言っているのか、つばめは最初、理解できなかった。じわじわとその意味を考えて、夏の夜だというのに背筋が寒くなる。

「昔から、あいつは賭け事が好きだった」

 ぽつんと、陣がつぶやく。

「正月に親戚が集まるときも、おせちや罰ゲームをかけてトランプをさせられた」

「陣……」

「あいつはディーラーみたいに、その場を支配するのがなによりも好きだった。おれはいつも、あいつのターゲットだった。兄貴はいつも、そんなおれを守ってくれた。なのに……」

 陣がうなだれる。つばめは陣の手のひらをにぎった。

「陣はここにいて」

 陣は顔を伏せたまま、横に首を振る。つばめは頷き、「じゃあ、余裕が出来たら来て」と言った。陣の手を最後になでるように握った。それから、先頭を切って、バーベキュー場の入り口をくぐり、一番奥の、特等席のようなスペースを陣取る一団めがけて歩を進めた。足を組み、ヘラヘラと笑っている恭介が、その中心にいる。憎らしくて、恐ろしくて、自分が負の感情に飲み込まれていく。

「ずいぶんのん気ですね。万引きを撮影していた仲間が捕まったっていうのに」

 突然のつばめの登場に、場は一瞬、沈黙した。そのあとすぐに、場が騒然となる。え、なにこいつ。マジで来たんだけど。うそでしょ?――その中で、恭介だけはゆっくりつばめに焦点を合わせた。その余裕な態度が、つばめの目に空恐ろしく映る。

「あなたたちのやってることは犯罪ですよ。わかってるんですか」

「なに言ってんのこいつ」

「さむ!」

「ヒーロー気取りかよ」

 つばめを一蹴するように、ゲラゲラと下品な笑い声が響く。

「てかお前、ポスターやぶろうとしてた奴じゃん!」

 黒髪マッシュがつばめを見て、ようやく思い出したように叫んだ。それからにやけ顔で、じろじろとつばめを見た。

「陰キャががんばっちゃってるよ、恭介、これどうすんの?」

 あるものは肉を頬張り、あるものはスマホをつばめに向ける。しかし表情は、皆一様ににやけた顔をしていた。ここでさっきまで黒ずくめの仲間からの映像を確認していたなら、なにかトラブルがあったことは織り込み済みだろうに。心配もせず、平気で肉を焼いている神経が理解できなかった。つばめは悔しさと困惑を飲み込む。

「おれたちには、なにもできないって、タカをくくってるのかもしれないけど……笑ってられるのだって、いまのうちですから」

 完全になめられている。つばめがなにを言おうと、品のない笑い声と、さっきと同じような内容の侮辱がかき消した。これほどまで話が通じない経験は初めてだった。自分たちがいま、同じ言語で話しているのかさえ疑ってしまうほどに。だが、それまで黙っていた恭介が半笑いで口を開くと、そんな声もぴたりと止まる。

「……小鳥ちゃんさあ」

「なんですか」

「きみはね、大きな勘違いをしてるんだよ」

その目は、とても冷たく映った。まるで一切の光が届かない深海の中にいるように。

「きみはね、ただのモブなの」

「……」

 口笛の音がはやし立て、どっと皆が噴き出した。

「モブがどんなに頑張ったって、なにも変わらないの。きみとおれじゃあ、信用が違う。D棟のお情け入学のきみと、理事長の孫でA棟の寮長のおれ。きみがなにを喚こうと、誰もきみなんて信用しない。ただのトラブルメーカーとして、迷惑がられるのがオチ」

 恭介が緩慢な動作で立ち上がる。つばめにゆっくりと詰め寄り、顔をぬっと近づけて、耳元でささやいた。

「残念でした」

 つばめが言い返そうと、口を開いた。だが反撃は叶わなかった――もう一つの太い腕が、つばめと恭介を引き離したからだ。

「お前……」

「陣……!」

 いつものポーカーフェイス。突然の陣の登場に、運営の連中が驚きを持ってざわつく。「え。誰?」と声が漏れたということは、陣の存在を恭介は知らせていなかったということか。意外な事実だった。

「いいか、お前らのやってることなんてお見通しなんだよ。弱いやつを脅して万引きさせて、それをネタに違法な賭けをしてることくらい」

 陣は恭介を見据えた。

「佐倉堂で万引きをさせたのも、おれへの嫌がらせだろ。あんたはどうしていつもそうなんだ。そうやって人を痛めつけて楽しむ。恥ずかしくないのかよ」

「お前は成長しないな、陣」

 だが恭介は、陣をまったく無視した。陣の投げかけた疑問をそんなすれ違いに、うすら寒いものを感じる。

「昔からそうだ。どんなことでもおれに敵わないくせに、いつも突っかかってくる」

「あんただって変わってない。昔も今もそうやって人をコントロールして支配したがる……ああそうだ、おれは昔から、あんたのおもちゃだったな」

 陣の語尾が震えている。背中を支えるように手を添えたら、「キモ。ホモかよ」と声が聞こえた。

「正月が憂鬱でしょうがなかったよ。でも、守ってくれたのは兄貴一人だった。アリンコを二つに切断して何センチ歩けるかとか、熱々のお茶を、おれが三十秒以内に飲み切れるかとか。いつもうすら寒い笑顔の仮面をつけておれに賭けを持ちかけるあんたから、兄貴はいつも、おれをかばってくれた」

 なにそれ。恭介やばあ。サイコパスじゃん、お前。

 つばめは信じられない思いで恭介を見た。どうしたら、そんなことを思いつくのだろう。緊張と恐怖がここに来て湧き上がる。目の前の男は、本当に自分と同じ人間か? だがそんなことを平気でできる人間から、逃げてはいけないと思った。

「……夜の海に飛びこむ度胸があるか、とかね」

 口角を上げて、恭介が言った。陣が息をのんだのが分かった。つばめたちの修羅場など知る由もなく、純粋にバーベキューを楽しむ生徒たちの笑い声がした。

「……」

「兄ちゃんならできるって、お前が言い張ったんだよな。珍しくお前は譲らなかった。一方、おれはできない方に賭けた」

 背中に当てた手が熱くなる。しっとりと汗が滲んでいく。

「あいつも、弟の期待に応えたかったんだろうなあ。かわいそうにな」

 心に巣食う闇の正体を、つばめはようやく理解した。同時に、目の前の男が、人の皮を被った化け物だということも。陣の心中など、そんなもの、推し量るまでもなく分かっていた。だから陣が背を向けて、しゃがみこんだのもしょうがない。つばめは生まれて初めて、頭に血がのぼると言う経験をした。気づけば恭介に向かって怒鳴っていた。

「ふざけんなよ! どうせあんたが焚きつけたんだろ!」

「はあ?」

「お、頑張ってる頑張ってる」

 黒髪マッシュがはやし立てる。つばめは恭介から目を離さず問いかけた。

「ねえ、どうしてそんなことして平気なの? 運営の人たちだってそうだ。どうしておかしいって思わないの? こんなことして、心が痛まないの?」

 だが、つばめの必死の問いかけは、薄笑いに溶けてなくなった。

「お前みたいなクソ陰キャ見てると飯がまずくなるんだよ。さっさと消えてくんない? お金欲しいならあげるからさ。お前んち、貧乏なんだろ」

 つばめは首を振る。モモのいう通り、彼らもまた、裕福な家庭に育ったのだろう。だがそれだけの理由で、どうして彼らはこんなにも横柄になれるのか。どうして自分は、こんなにも侮辱されなきゃならないのか。

「……バカみたいだ。そんなんだから、簡単にお金を巻き上げられることに気づかない。それが全部、仮屋さんのブランド物のバックやアクセサリー、毎日の外食代になってるっていうのに」

「……は?」

 だが仮屋の名を出した瞬間。恭介の纏う空気が変わった。

つばめは息をのむ。だがそれを敏感に感じ取ったのは、つばめだけではないらしい。それまでにやにやと笑っていた取り巻きが、一斉に顔をこわばらせた。

「き、恭介」

「その汚ねえ口を閉じろよ」

 恭介が、近くの椅子を蹴飛ばした。さすがのつばめも、びくりと半歩下がった。辺りがしんと静まり返る。

この人は危険だ。言葉にならない動揺が、バーベキュー場全体に伝わる。当の本人は、完全に据わった目をしてつばめに詰め寄る。

「おい、よく聞け底辺」

 恭介の鼻がぴくぴくと動いている。

「お前みたいなのは一生、地面を這いつくばって、やっすい給料で、社会にブーブー文句言いながら生きてくんだよゴミ。ピラミッドの頂点を、指をくわえて見てるだけ。身の程をわきまえろ、社会の底辺が」

 つばめは傷つかなかった。触れたらその場所から腐っていくような汚い言葉をかけられているのに。それより陣に背中を向けられたときの方がずっと辛かったと、瞳の色だけは陣に似た、恭介の顔面を見ながら思う。

 つばめは半歩、また前に出た。大きく息をつき、それから男から取り上げたスマホを、印籠のように恭介につきつけた――彼には言わなきゃわからないらしい。自分が置かれている、本当の立場というものを。

「このスマホの持ち主が、花村さんの万引き行為を撮影していた証拠があります。スーパーから逃げるところも、多くの人が目撃してる。学校にも警察にも連絡済みで、いまごろ花村さんと一緒に、話を聞かれていると思います」

「……」

「花村さんは、きっと逃げません。花村さんがどんな弱みを握られているかわからないけど、きっと洗いざらい話してくれる。万引きするよう脅してくる人間がいることも、そいつがミスコン運営委員だってことも。佐倉さんは被害届を出してくれるそうです。佐久間さんも、もし受理されれば、知っていることを洗いざらい話すと約束してくれました。ここから先は警察の領分でしょうが、恭介さんと仮屋さんの名前も出るでしょう。どういうカラクリでお金を仮屋さんに流しているのかは知りませんが、ここまで大事になれば、それもいずれ明らかにされるはず」

 後半はハッタリだったが、つばめは怯むことなく嘘を並べ立てた。毅然と、一回り以上大きな恭介に立ちはだかる。つばめの演説を聞いた黒髪マッシュたちは、さっきの余裕はどこへやら、皆一様に焦ったような表情を浮かべはじめる。

「え、捕まるとか、そういうのはないよな?」

「恭介。なんとかなるんだよな……?」

 だが、恭介はうす暗い瞳でつばめを睨みつけたまま、沈黙を守った。やがて、小刻みにその体を震わせながら、鼻息を荒くして憎々し気に吐き出した。

「……黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ」

「……」

「きしょいんだよ、お前。マジでキモイ」

「……」

 呼吸が浅い。なのに見開かれた瞳だけは、まるで人形のように据わって動かない。

「底辺の嫉妬とかマジでキメえ。ねえ、なんなの? そんな頑張っちゃってもお前は底辺のままだって自覚しろよ? チビでバカで貧乏とか言う三重苦が辛いのは分かるよ? だからって人の足引っ張って楽しいわけ? 大体お前、人の金でこの学校入っといてなに偉そうに説教してんの? 社会のお荷物、乞食風情が、もっと自分の力で幸せになれよ。お前マジで恥ずかしいから。底辺不細工が成功者の揚げ足取りに必死とか、惨めすぎてきしょすぎ。吐き気するわ。死ねよ、マジで死ね」

 それが事実上の敗北宣言であったことに、勘の良いものは気づいていただろう。いつの間にかパプリカや玉ねぎ、ピーマン、にんじんなど色鮮やかな野菜が、ぶすぶすと音を立てて焦げ付いていた。つばめは矢のように飛んでくる罵詈雑言を、真正面から受け止めた。

「見なくていい。聞かなくていい」

だが突然、大きな手がつばめの視界を覆った。

耳の中に、濡れたような、低いテノールが吹き込まれる。

「大丈夫。お前はこんなに汚いものも見る必要も、聞く必要もないんだ」

「なんなんだよさっきから! キモいんだよホモ! そうやって一生、ゴミ同士傷の舐め合いしてろ、この――」


「恭介」


だがそのとき、この場にそぐわないほどの、厳かな声がした。

恭介の暴言がぴたりと止まる。つばめも聞いたことがある声だったが、瞬時にそれを思いだすのには時間が足りなかった。暗闇の中から声の主にたどり着く前に、目の上の体温が去り、視界が急に開かれた。

「あ……」

 思いがけない人物の登場に、つばめもあんぐりと口を開ける。

そこにいたのは、つばめをこの碧波学園に入学させてくれた張本人――あれから一度も会うことはなかったが、決して忘れることのない恩人――近衛理事長その人だった。

「口を閉じるのはお前の方だ」

 近衛は厳しい口調を恭介に向けた。急展開につばめは言葉を失ったが、陣はつばめを背後から抱きしめるように腕を回したので、黙って成り行きを見守ることにする。

「じいちゃん」

 恭介の幼い声が、力なく響いた。親とはぐれて途方に暮れる迷子のような声だった。

「残念だ。とても」

 対して近衛の声は、ひどく哀し気な声だった。この場にいるすべての人間の悪意や嗜虐心をすっかり削いでしまうほどに、物悲しい響きを帯びていた。

尋常ではない空気を感じ取った学生たちのざわめき。それでもつばめたちのいる領域だけは、水を打ったように静かだった。

「これは……違う。じいちゃん。これは違うんだ」

 なにかを取り繕おうとする恭介の焦りは、そんな沈黙にから回った。近衛は首を振る。

「でも近衛さん……どうしてここに?」

 つばめのつぶやきに答えたのは陣だった。

「おれが呼んだ。こうするのが一番早いからな」

 あっけらかんした顔で、陣がつばめを抱いた腕の力を少し緩めた。つばめが陣を見上げる。

「どういうこと?」

「お前の言う通りだよ。あいつはタカをくくってた。おれに自分を告発する勇気なんてないって。おれはいつもみたいに、自分に怯えて、震えながら閉じこもるしかできないって。あいつは見抜いてた。確かにおれは、お前に嫌われるのが怖かった。でも……」

 陣がぐしゃ、とつばめの頭を掻き交ぜた。

「お前が言ったからな。なにがあっても嫌いにならないって」

 陣がはにかんで笑った。

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