第23話
期末テストを一週間後に控えた今日は、風の強い日だった。空を見上げれば、青い部分も、白い部分も、灰色の部分もあった。それらが忙しく動き回って、一体今日は晴れなのかそうでないのか、強風に振り回されてよくわからない日だった。
だから今日は、テスト前ということを念頭に置いても売り上げが少なかった。だが、それよりつばめの心を占めていたのは、明日からバイトや部活が禁止になることだ。それはつまり、今日から少なくとも一週間、陣と会うことはないことを表す。
無駄のないが、どこか緩慢な動きで仕事をこなす陣のエプロン姿に目をやる。今日はオープンからラストまで一緒だったが、つばめと目が合うことはほとんどなかった。つばめは息をついて、レジ横のカレンダーに視線を移す。
「ねえ、陣」
「……なんだ」
反応があったことに安堵する。
「佐倉さん、閉店までには帰ってくるんだよね? 港まで手伝いに行ったほうがいいかな?」
「そうだな……」
陣が腕時計に目を落とす。
「おれが行ってくる。店、任せていいか?」
「あ……う、うん」
陣は随分とあっさり承諾したので、つばめは拍子抜けした。エプロンを付けたまま、無言で店を出て行く。皆との到着予定時刻にはまだ一時間以上あるはずなのに。もしかしたら自分と一緒にいたくないのだろうかと、ただ会話をしたかったがゆえに軽い気持ちで提案したのを後悔する。
先日モモから得た情報は、未だつばめの胸の内にある。事件について触れたくないという陣の思いは予想以上に強く、話をできる状況ではなかった。恭介との間に、なにがあったのか――今回の万引きの件と直接的な関係はともかく、つばめはただ知りたかった。だが閉ざした口を無理に開かせることは、つばめにはできない。だから、自分は何があっても陣の味方なのだということを伝えたかったが、思えば思うほど、口はうまく回らなかった。
「仮屋さんと恭介さんには繋がりがあった。陣、どう思う?」
応えるのは、冷房の音だけだった。つばめは少し迷って、冷房の温度を上げる。二十六度から二十八度に。それから在庫のチェック表を持って、最新刊の漫画本の数を照らし合わせる。これは暇なときに、つばめが自発的にやっていることだった。万引きが起きたら、すぐにわかるように。それは自分たちを苦しめるなにかへの、密かな抵抗だったのかもしれない。
そうやって一時間が過ぎたころ、店の外から車のエンジン音が聞こえてきた。つばめはペンを置き、自動ドアを開けて外に出る。びゅうん、と吹きつける風に、思わず目をつむった。
店の前の道路に止めた軽トラックから、佐倉と陣が降りてくる。笑顔を作って二人を迎えようとしたが、困り切った佐倉の声に足が止まった。
「陣くん、考え直してくれないかなあ」
それを受けてか、陣が首を振るのが見えた。なにやら不穏な空気が、二人の間を漂っている。つばめは胸騒ぎを抑え、「おかえりなさい」と声をかけたが、佐倉はつばめの姿を見るなり、風に髪が逆立つのもかまわず、眉をこれでもかというほど垂れ下げて言う。
「ああ、湊くん! ちょっと、彼、なにかあったの?」
「え、なんの話ですか?」
陣は黙々と、台車に段ボールを積んでいる。
「陣くん、七月いっぱいでバイトを辞めるっていうんだよ」
「ええ⁉」
恐れていたことが起きた、と思った。つばめの視界の片隅で、ばつの悪そうな顔が映る。驚きより、悲しみの方が大きかった。同時に、そこまで追い込まれていたと気づかなかった自分を殴りたくなる。
「陣、どうして……」
「悪い」
佐倉とつばめが顔を見合わせる。閉店時間が迫っており、仕入れた本の仕分けなどその後は仕事が山積みだったので、その場ではいったん保留ということにした。だが、陣の決意が変わらないだろうことは、その顔を見ればわかった。
佐倉は心配そうにつばめにも何度も質問をしてきたが、彼の真意が読めないのはつばめも同じだった。だが事態が悪い方へ、悪い方へと向かっているという確信だけはあった。
「陣」
「……なんだ」
「話があるんだ」
「おれにはない」
閉店後、陣はバス停とは違う方向へと歩き始めた。一時間ほど残業をしたため、あたりは夕闇に沈んでいた。陣は徒歩で寮まで歩くつもりのようだった。こんなにも風の強い夜に一山超えるのは危険だと言ったが、陣は止まらなかった。さらに陣は、いつものようにキャンパスを横切る最短ルートではなく、西海岸から迂回して山の入口へと向かう道を進んでいた。いつもと違うことばかりで、つばめは混乱した。数メートルおきに設置された外灯を頼りに、陣の後を追う。背中が遠くなるのが怖くて、つばめは思わず早足になった。
「待ってよ……」
つばめの腕を振り払わない優しさに、つばめは泣きたくなる。陣は変わっていない。そんなこと、わかっていたはずなのに。
「どうして、バイトを辞めるなんて言ったの?」
「……」
「万引きの真犯人を追わないって、どうして?」
「……」
陣は前を向いて、傍らのつばめには目を合わせない。足を止め、つばめの腕を自分の腕からそっと解く。だがその仕草はつばめへの気遣いが垣間見えるほどに優しくて、つばめはとうとう、大きな瞳から涙をこぼした。冷え切ったカイロの、でも握りしめたら芯の部分にまだほのかな温かみを感じたときのような、寂しい安心感。硬い指が、最後につばめの手のひらを名残惜しそうに軽く握ったのを、つばめの敏感な皮膚は感じ取った。
「おれは、勘違いしてたんだ」
突然陣の口からこぼれた言葉を、つばめの耳が拾い上げる。聴力検査のときみたいに、自分の呼吸のせいで聞き逃してしまいそうだったから、息も止めていた。
「許されるわけないのに、普通の幸せを得ようとした。学校行って、バイトして、仲いい奴が出来て……」
陣。つばめが陣の名前を呼ぶ。でも、陣は止まらなかった。
「お前に出会って、忘れてた。絶対に忘れちゃいけなかったのに。おれは、罰を受けるためにここに来たんだってことを」
罰。心の中で、つばめは繰り返した。陣はなにを言っている? でも、考える暇はなかった。語尾は震えていた。通り雨に打たれて、ずぶ濡れになった子猫みたいに。人工的な白い光を発する外灯は、その彫刻みたいな顔立ちに、芸術的なまでの陰影を与えていた。
「おれ、兄貴を殺したんだ」
つぶやきは、夏の夜に融けていった。ごめんな。その言葉を置き土産にして、立ち尽くすつばめのもとを去った背中は、ほんの数秒ほどで、闇に飲まれて見えなくなった。
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