第24話

 シャーペンの芯をこつこつと解答用紙に押し付けながら、つばめは苦悩していた。

 それまではすらすらと解けていたが、最後の一問だけがわからなかった。数字を書いては消し、書いては消し、そうしているうちに残り時間はあと五分。諦めてしまおうか――よぎる悪魔のささやきに、つばめは強く抵抗した。

「それまで! ペンを置いてください」

 途端に教室内がざわめく。力が抜けた。なんとか答えらしき数式は導き出したものの、おそらく見当違いであろう。そんな悲しい確信を得たところで、つばめは机に突っ伏すようにして、目だけを窓の外に向けた。雲一つない快晴すら、青すぎて鬱陶しかった。解放感に満ち溢れたクラスメイトたちの声が恨めしい。

 あの夜、つばめは陣を追いかけることができなかった。だが、陣を苦しめていたものの正体が良心の呵責であったことは、つばめの心に密かな安堵をもたらした――嫌われていたわけではなかったと確信したからだ。そんな自分に嫌気がさして、なにも考えたくなくて、つばめはテスト勉強に打ち込んだのだ。

 だが、すがるものがなくなれば、待っているのは現実だった。陣の罪の告白。だが、それに応えるにはあまりにハードルが高すぎた。陣が、人を殺すことなどないとわかっているのに。 

 いま、陣とつばめの間には壁がある。近づいただけで火傷してしまうような炎の壁が。陣が自分を守るために放った火。それを呆然と眺めるしかできない自分。

「夏休みに寮に残る学生は、明後日までに申請しておくように」

 担任の教師が、淡々と連絡事項を読み上げる。「夏休み」というワードに、つばめは家へ帰るべきか、その決断からも逃げていたことに気付く。陣はどうするのだろう。陣がいなくなったら、自分は一人きりだ。いや、いまだって一人きりじゃないか。そんな風に考えて、また胃が重くなった。

(今日は七月十八日だから、二十日までか……)

 七月二十日は、陣の誕生日だ。あの日、陣がかけてくれた言葉を思い出す。下を向くな。今度は、自分がそう伝える番なのに。

 ホームルームが解散となり、騒がしくなった教室を後にする。つばめはだらだらとキャンパス内を歩いた。あるはずのない答えを探して。暑くてしょうがない。額の汗を拭い、ふと、屋外掲示版に、例のポスターが貼ってあるのが見えた。

〖目指せ、碧波の頂〗

 このポスターに出会わなければ。つばめも陣も、こんな風にならなくて済んだのだろうか。そもそも、ミスコンなんてなければ。誰かさんがミスコンなんて立ち上げなければ、こんなに不幸な巡りあわせなど起きなかったんじゃないか。そう思うと、つばめは跡形もなくなるまでボロボロに破いてしまいたくなった。モモの描いたデザインを、平気で盗んでポスターにする、その腐った根性もまとめて。

 感情に身を任せて、ポスターに手をかける。ポスターの上の部分が、くしゃ、と手の形に歪んだ。くそ、くそ、くそ――歯ぎしりして、でも、最後の理性がそれを押しとどめた。

「ちょ、お前……何やってるんだよ!」

 だが、背後から鋭い声が飛んだ。その声に、慌てて手を放す、すると見知らぬ男が、ものすごい勢いで詰め寄ってきた。

「ちょ、なんですか……っ」

 男はつばめの腕を掴み上げ、ガン、と掲示板に押し付けた。痛みに顔が歪む。なんだなんだ、とやじ馬がぞろぞろと集まってくる。

「いまポスター剝がそうとしてただろ!」

「それは……っ」

 謝るもんかと思った。こんなに攻撃的な気持ちになったのは初めてだった。客観的に見たら、勝手にポスターをやぶろうとしている自分が絶対的に悪いとわかっていた。だがつばめは、力の限り抵抗した。絶対に負けるもんか。相手が誰だかわからないのに、つばめは力の限り暴れた。

 だが小柄なつばめでは、体全体と片手で、体の動きは封じられてしまった。ぐう、と手負いの動物みたいな鳴き声が喉から漏れる。その隙をついて。男は開いている手でポケットからなにかを取りだした。

 見たことがある。

「それ」をみて、まず感じたこと。

「もしもしぃ⁉ いまさあ、ポスター回収しに来たんだけど、変なやつが破ろうとしてて――」

 それがスマホだと気付いたのは、男がそれを耳にあてて話し始めたからだ。つばめの目は、その四角い物体にくぎ付けになった。体から力が抜けた。

「そ、そのスマホケース……」

 自分は、これをどこかで見た。だが、その答えを導き出すのにさほど時間はかからなかった――すべてが始まったあの日。それはつばめも知らず知らずのうちに、つばめの脳裏に、はっきりと刻まれていた。

 ユニオンジャックのスマホケース。

 おれはこれを拾った。

 あの日、店の入り口で。

 その人は、走って消えて行った。

 その後、佐久間さんと陣が揉めている声が聞こえたんだ。

 そうだ。この人は、あの場所にいた。

 万引きが起きた、その日に。

 油断したのか、拘束が緩んだ隙に、つばめは思い切り男を突き飛ばした。電話に集中していたのか、不意を突かれた男がよろめく。その間に、つばめは走り出した。やじ馬がつばめを避けてできた道を、全速力で駆け抜ける。

「待てコラあ!」

 そう怒鳴る声も、足が限界を迎えるころには全く聞こえない。とにかく走り続けて、つばめが足を止めたのは、キャンパスエリアの端にある、授業では使ったことのない棟の裏側だった。息を切らしながら、人目のつかない奥まった方へ移動し、建物を背に座り込んだ。

 肩を上下させ、必死に肺に酸素を取り込む。どっと噴き出した汗で、シャツはびっしょりと濡れていた。体の中からこみ上げる熱さと外気の暑さに、息苦しくて顔を天に向けた。

 見上げた青空が、憎らしいほど青い。太陽はこれでもかと言うほど、つばめを照りつける。

(あと何回か登校したら、もう夏休みだ。この前まで春だったのに)

 季節は変わっていくのに、陣に対しての自分の姿勢は、なに一つ変わってはいない。つばめはこぶしを握り締めた。結局、怖くて手を伸ばせずにいたのは自分だ。このままではだめだと決めただろ。いままでだったら、見て見ぬふりをして、当たりさわりのない距離感を模索しただろう。でもいまは違う。陣が苦しんでいるなら、自分は動かなくてはだめなのだ。青空を睨みつけて、つばめは立ち上がった。

 ああ。太陽がまぶしい。

 陽の光が、つばめの迷いや躊躇いを蒸発させていく。不純物が抜けて、残ったのは覚悟。

 息を落ち着けてから、つばめはスマホを取りだす。それからていねいに、一つ一つ、文字を入力した。

『陣。先週はごめんね』

 そう入力しかけて、消した。

『陣。先週は話してくれてありがとう。おれ、なにがあっても陣を嫌いになったりしないから、それだけは忘れないで』

 何度も読み返し、ときには直して、送信した。既読はつかない。つばめはトーク画面を閉じ、次はモモに電話をかける。

「モモさん、話したいことがあるんです。今日、時間ありますか」

「もちろん。最近連絡ないから、心配したのよ」

「ごめんなさい」

「それで、覚悟は決まった?」

「……はい」

 通話先でモモが微笑んだ気がした。つばめはもう一度、「はい」と言った。

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