第12話

 六月に入り、夏の色が一日一日と濃くなってきたころ。つばめは放課後、この学園の名物でもある図書館を訪れていた。

 キャンパスのど真ん中に建つバロック建築の雰囲気を色濃く残す建物は、キャンパスの中でも独特な雰囲気を醸し出している。ヨーロッパの宮殿のような佇まいで、海外に行ったことのないつばめにはお気に入りの場所だった。

(今日は閉館まで居座ろう)

 あの事件から、すでに一か月が過ぎていた。だが残念なことに、黒幕を暴くという意味で進展はなかった。また忙しなく過ぎていく毎日の中で、つばめの認識にも変化があった。あれほど衝撃的だった出来事のはずなのに、時間が経てば経つほど、それはただの出来事の一部になり、日常に溶けてなくなっていくのだ。つばめは姿の見えない敵と戦うような気分でそれに抗おうとするのだが、だからといって有効な手立てがあるわけでもない。言葉にはしないが、陣とつばめの間では諦めムードが漂うことすらあった。

 あの日以来、陣との距離は少しだけ縮まった。正直なところ、つばめはそれがとても嬉しくて、その喜びが、万引きという負の記憶を塗り替えてしまっている、そんな気もしていた。陣には決して言えないが、そんな本心と焦りがミックスされた複雑な感情のまま、つばめはこの一か月を過ごしていた。

 佐久間とは定期的に連絡を取ってはいるが、陣によれば、いまのところ次の「指令」はきていないという。佐倉堂での万引きが失敗した後も、特になんのリアクションもない。不気味な沈黙は、いまなお続いているようだった。だんだんと焦りの比率が大きくなってきたころ、つばめが見つけた息抜き、それが図書館へ通うことだった。

 とはいえお金がないつばめにとって、図書館は無料で娯楽を得られる唯一の施設だったから、入学時から利用することは多かった。だからこそ、見慣れたエントランスの掲示コーナーの見慣れぬポスターは、通り過ぎる一瞬でも、つばめに強い印象を与えた。そしてその前に、仁王立ちで立っている少女にも。

「……」

 背の高い少女だった。切りそろえられた黒髪のボブカット。足も長く、うしろ姿からでも小顔さは際立って、まるでモデルのようだった。

 そこにいるだけで、人目を惹く人間がいる。陣や恭介もそうだろう。つばめとは、反対側にいる人間。そんな少女はカラフルなポスターを微動だにせず見つめていたかと思えば、くるり、と方向転換した。意志の強そうな目。すれ違う生徒の視線に目もくれず、もちろん通行人Aのつばめなど視界に入れることもなく、大股でエントランスを横切り、まさに風のように去っていった。

 ほんの数秒の出来事だった。騒めきの名残の中、つばめはそのポスターに歩み寄る。モノクロの掲示物の中、派手な配色で虹がでかでかと描かれたそれには、次のように書かれていた。

『目指せ、碧波の頂。』

 黒のイタリック体で記されたキャッチコピー。その下には、小さい文字で、『第三回 碧波学園ミスコン・ミスターコングランプリ』と書かれていた。つばめは、あっ! と叫ばなかった自分をほめてあげたい気分になった――ミスコンの情報なんて、いま、自分たちが一番欲しい情報ではないか。興奮を抑え、つばめはスマホでポスターの写真を撮った。

「おや、もしかしてミスターコンに興味が?」

 ふいに背後から声を掛けられ、つばめは飛び上がりそうになった。次に、どこかで聞いたことがある声だと直感し、振り返ってその直感が正しいことに気づくまで、およそ三秒。

「こ、近衛さん……」

 左耳に揺れるリングのピアス。涼し気に目を細め、覗き込んでくる彫刻のような顔に、一歩後ずさりながら、陣とは似ていないな、と場違いなことを考える。

「ん? おれのこと知ってるの?」

「え?」

「……ああ、あの時の小鳥ちゃんか!」

 どうやら、ただポスターを見ていた生徒に声をかけただけのようだった。自分が人から顔を覚えられないタイプなのは承知していたので、忘れられていたことに思うところはない。

「久しぶりだねえ、小鳥ちゃん。学園には慣れた?」

「は、はい。おかげさまで、なんとか……」

「それはよかった。それで、ミスコンに興味が?」

「い、いえ。見ていただけです。ポスターがカラフルで目を惹かれて。へへ」

「そう? これ、ちょっと派手すぎない? 何色も塗りたくりゃ良いってわけじゃないと思うけど」

 恭介の温度が読めなくて、つばめは戸惑った。なんと答えればいいのかわからず、本来の人見知りのつばめが顔を出す。そんなつばめに、恭介はふふ、と笑って言った。

「それはね、十月の文化祭のメインイベントなんだ。ミスターコンもあるから、小鳥ちゃんも出なよ。きっと盛り上がるからさ」

 そんなこと、露とも思っていないのがわかる口調だった。つばめは下を向きながら、ごにょごにょと反論する。

「そんな、冗談やめてください……」

 それより、陣の方がずっと適役だと思います――そんなことを口走りそうになって、慌ててやめる。しかしつばめの胸中などいざ知らず、「そんなことないさ」と、恭介が喉で笑った。

 つばめはようやくからかわれていることに気づいて、苦笑いした。まるではやし立てられて、芸をさせられている動物になった気分だった。恭介のペースに振り回されている。つばめは落ち着かない気分になって、胸元の本をぎゅっと抱きしめた。

「ごめんごめん。きみの反応が面白くて、つい」

 からっと乾いた声で、恭介がまた笑った。

「それじゃあね。良い学園生活を」

 散々つばめを引っ搔き回して、恭介は去って行った。ポスターを見つけたときの興奮は萎れて、つばめはそこからなかなか動き出せずにいた。もう一度、派手なポスターを見上げる。

『応募者募集中! 締め切りは七月末まで!』『碧波ミスコン・ミスターコン運営委員会:本館8F・8020教室』の文字が躍る。そしてその下に、連絡先としてメールアドレスが表記されていた。ポスターからわかるのはそれだけだった。

 陣には、いったん内緒にしよう――つばめは直感的にそう思った。以前陣に恭介の話を振ったときに見た表情から、つばめは薄々、彼らの間にあるほの暗い空気を感じ取っていたのだ。

 行くべきかどうか、つばめの心に迷いが生じた。そこに行けば、さっきのような好奇やからかいの目にさらされる気がして、胃のあたりがズンと重くなる。だが、いまの状況を打破したい気持ちの方が勝って、つばめは顔を上げた。

(ああ、陣に会いたいな)

 本館へ向かって歩きながら、つばめは最近のルーティン通り、メモを手に、バイトの手順を思い返す。査定はマニュアル通りに。だがメディア化によって期間限定で買取価格が上がる漫画もあるので注意、その場合はレジ横にある別紙を参照。査定が終わったら、お客さんを呼んでお支払い。ちゃんと了承を頂かないと、のちのちトラブルにもなりうるから気を付けること。そうだ、落書きやふせんなどが残っていないか確認して、終わったら専用のクリーニング剤で綺麗にして……。

 そうすれば、気がまぎれる気がした。十分ほど歩き、本館に着く。去年、建て替え工事が完了したばかりらしく、どこにいても新品の匂いがした。ガラス張りのエレベーターを登り、八階で降りる。周辺にはほとんど人はいない。しかし、白い壁で埋め尽くされた廊下の一番端の方から、静寂を犯すように、高らかな笑い声が響き渡っていた。その存在は近づくほどに大きくなり、想像通り、それは8020教室から漏れているようだった。

 ノックの音は、つばめの覚悟に反して控えめだったが、その硬質な響きは、広がり続ける笑い声を断ち切るのには十分だった。一瞬の静けさの後、返事も無しにガチャ、とドアが開く。

「えー、どちら様ですか?」

 黒髪マッシュの男子生徒が、高い位置からつばめを見下ろす。

「すみません。ポスターを見て伺ったんですけど」

「ああ。ミスコンの件ですか。……そうだなあ、じゃあ入って」

 招かれたドアの向こうには、長机が並べられ、そこに十人程度の男女がお菓子や飲み物を広げて座っていた。容赦ない視線が、一斉につばめに集中する。それは自分が明らかに、この場において異物でしかないと実感するには十分だった。怖気づいた自分の尻を自分で叩き、下を向いたまま、つばめは教室に入った。

「失礼します……」

「ミスコンの件だってさ。えーと、じゃあここ座ってください」

アサリに入り込んだ砂みたいな気分だった。ドアに近い机に座らされ、言葉にならないささやきをやりすごす。会議中だったのか、ホワイトボードには「7/20開催♡期末テストお疲れ様会♡」の題とともに、いくつかの候補案が書かれ、バーベキューに赤い二重丸がついていた。

 だが黒髪マッシュが紙を持ってつばめの隣に座ったあたりで、教室はつばめなど喉元を過ぎた存在とでも言うように、各々の日常を取り戻していた。

「推薦したい人の名前をここに書いて」

「すみません。実は……」

「え、もしかして自薦? じゃあ紙が違うんだよね、」

 そのとき後ろの席から、女子たちの押し殺した笑い声が聞こえた。つばめは慌てて、立ち上がろうとした黒髪マッシュを止めた。

「い、いえ! 今日はただ、お聞きしたいことがあって来ただけなんです」

「はあ。聞きたいこと?」

「二年前のミスコンのことなんですが」

 二年前? と怪訝そうに呟くマッシュに、少し声をひそめて尋ねる。

「仮屋さんという方です。二年前に、グランプリを取った……」

「ああ、一年で優勝した子でしょ、あれだ、玲香ちゃん。それがどうかした?」

「えっと、ちょっとお話したいことがあるんですけど、連絡先を知らなくて。仮屋さんについて、なにか教えて頂けたらなと……」

「はあ」

 厄介なファンだと思われたらしい、黒髪マッシュの目に、不審に加えて軽蔑の色が浮かぶ。「やば」「ストーカー?」「きも……」かろうじて小声だが隠す気のない陰口が、背後からつばめをちくちくと刺す。

「違うんです。昔仮屋さんとお付き合していた人が、彼女と連絡が取れないと困っていたので……」

「それってさ、玲香ちゃんは関わりたくないんじゃないの? 連絡取れないって、そういうことだろ」

「それは……」

 確かに、一理あると思った。だが彼女が佐久間の前から姿を消したタイミングを考えても、貰ったネックレスが盗品であることを知らないとは考えづらい。そこにはなにか、ほの暗い事情が見え隠れしている気がするのだ。さてどうしたものか、とつばめが頭を巡らせていると、前触れもなく教室の扉がばん、と開いた。

「ちょっと。あのポスター、どういうことよ!」

 一人の女子生徒が、教室に怒鳴り込んできた。室内が、一瞬静まり返る。つばめは目を瞠った。切りそろえられたボブカット。すらっとした体躯。そして――砥ぎたてのナイフのように鋭い眼光。それは先程、ポスターの前に立っていた少女だった。

「勝手に人の絵使うなんて、いい度胸してるじゃない」

「モ、モモちゃん……」

 黒髪マッシュがつぶやく。彼女はモモというらしい。それまでのダラダラした雰囲気は一変、空気が張り詰める。彼はつばめを放りだして、慌てて彼女の下へ向かった。

「モモちゃん、ちょっと落ち着いて、」

「うるさい。人の作品盗んどいて、なにが落ち着いてよ。このドロボー!」

 黒髪マッシュに、モモと呼ばれた少女が詰め寄った。どうやら、例のポスターのデザインが盗作であると主張しているようだった。

「あれは、あたしが二年前に描いた候補の一つよ。あんただって知ってるでしょ」

「誤解だよ。偶然なんだ。本当に、たまたま似ちゃったんだ、」

「構図から色使いから、なにからなにまで同じなのに? そんなことあるわけないでしょ!」

「いや、それでも……」

 少女の迫力に、黒髪マッシュはタジタジになりながらも、「盗作はしていない」という主張を曲げることはなかった。

「めんどくさ」

 ぼそっと、後ろの女子が漏らした言葉に、もう一人がくすくすと笑う。運営委員会のメンバーが、目配せをして、中には肩をすくめる者もいた。

「絵が描けるやつなんてどこにでもいるでしょ。アマチュアでもプロでも、誰かに頼めばよかったじゃない」

「だから、勘違いだって……」

「あんたらいつも、親の金で好き勝手やってるじゃない。どうして、使うべき所でケチるのよ。みっともないと思わないの⁉」

 モモと黒髪マッシュの議論は水平線を辿っている。「やった」「やってない」の水掛け論に収束の兆しはなく、やがてモモが呆れたようにトーンダウンした。

「もういいわ」

 教室中を見回して、軽蔑するように鼻で笑った。それからホワイトボードに書かれた予定を一瞥し、吐き捨てるように言った。

「……のん気なもんね、バーベキューだなんて。この島に、あなたたちの口に合う、お高いお肉は売ってるのかしら」

「モモちゃん……」

 ホワイトボードに目をやる。確かに文化祭とは関係ない期末テストのお疲れ様会を、ミスコンの運営で開催するのもおかしな話だ。

「なにがバーベキューよ。なにが期末の打ち上げよ。あんたたちミスコンの運営でしょ⁉ 理由つけてバカ騒ぎしたいだけじゃないの」

 彼女から放たれる怒気が、教室中を覆いつくす。

「だっさ」

 最後にそう吐き捨てて、彼女は教室を出て行った。しん、と静まり返った室内。やがてモモに圧倒された空気を取り戻そうとするかのように、黒髪マッシュが半笑いで言った。

「女の嫉妬は怖えな」

 それを機に、教室内がどっと沸く。

「まじやばい」

「びびったわ~」

「いつまで引きずってんだよ」

「ださいのはそっちじゃん」

 それまで影を潜めていたそれぞれの陰口が一つになって、それが大きなうねりになる。つばめは震えた。この場にいたくないと思った。

 先程の少女とつばめには面識はない。だが、大勢でたった一人を口撃し、嘲笑う、そんな空気に耐え切れなかった。

「お邪魔しました。失礼します」

 つばめは立ち上がると、誰の目も見ずにそう言い捨てて部屋を出た。さらに大きくなるざわめきを背中で受け流す。それから、一足先に立ち去った彼女を追った。

(話を聞かなきゃ)

 狙い通り、彼女はまだエレベーターの前に立っていた。つばめの足音に振り返る。その瞬間、あの意志の強そうな目が、つばめを真っ直ぐ射抜いた。

「あの……」

「誰?」

「一年七組、湊つばめです」

「一年生でミスコンの運営に入ったの? あいつらがよく許したね」

「違います。おれ、仮屋玲香という人を探していて、話を聞きにここに来たんです」

「仮屋……玲香の?」

 そこで初めて、モモの顔から、警戒の色が消えた。

「だから……ちょっと、話を聞かせてもらえませんか」

 おずおずと、モモの様子をうかがう。腕を組み、長い足で貧乏ゆすりをしながら、つばめを観察するように見つめる。やがてエレベーターが到着し、ぽん、と下向きのランプがついた。

「乗って」

 お眼鏡に叶ったのか、やがて彼女は流し目でそう言った。

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