第11話

 陣のバイトが早上がりになったのは、人出に対して客が少なかったからだ。陣曰く、狙えばだいたい当たらない。まだ日差しが残る四時過ぎ、橙色の花を手に、バス停までの道を歩く。

「母の日のカーネーションって、赤じゃねえの」

「別に、お母さんのためのじゃないから……」

「はあ?」

 陣の怪訝そうな顔ももっともだ。つばめは苦笑いしながら説明する。

「これは自分用」

「なんでだよ」

「別に、お母さんも喜ばないと思うし」

 そんな言葉が自然にこぼれて、つばめは慌てた。押し殺したはずの感情。自らさらけ出す、そんなつもりではなかったのに。

「……」

 陣の、様子を伺うような視線にいたたまれなくなって、つばめはなんてことないふうを装い、それでも目を合わせられないまま、あえて明るい口調で話す。

「弟がさ、いるんだ。父親は、違うけど」

 陣はこういうとき、根掘り葉掘り探ろうとする人間ではない。絶妙に複雑な家庭環境を語るつばめの声に、陣は黙って耳を傾けた。

「去年は、悠太がくれたカーネーションだから、嬉しかったんだろうなーとかさ」

 だが天に向かって投げたナイフが、重力によって自分に落ちてくるように、つばめは自分の言葉に傷ついた。

「だから、たまたま。オレンジ色がきれいだったから」

 でも、そのタイミングで陣を見たのは失敗だったかもしれない。陣とつばめの視線が交錯して、つばめの胸がどきんと鳴った。

「あ……」

「……」

 見たことのない眼差しに、頬が熱くなる。頬だけじゃない、耳も、首も、手も足もお腹も背中も。いたたまれなくなって、火照る体をごまかすように、つばめは言い訳を並べた。

「って、ちょっと卑屈すぎるよね。ごめん」

「……」

「だから、母の日に、赤いカーネーションを普通に買えるのが、ちょっと羨ましかったんだ。……でも、それがアタリマエなんだよね。普通の家族なら、」

 手に持った橙が、力なく地面を向いた。

「こんなことで迷ったり、しないんだろうな」

 辛うじて表面張力で保たれていたコップの水が、最後の一滴で決壊するように、感情が溢れて小刻みに震えた。ああ、カーネーションなんて、買わなければ良かった。さっきまで給料日でウキウキしていたのに。今日は情緒が乱高下している。でも、一度決壊したダムは、つばめの力では止めることが出来なかった。

「うちって、なんか変だよね」

「……」

「自分の母親が癌なのに、大して心配しないのもおかしいよね」

「……」

「心配するふりだけして、おれのこともばあちゃんのことも知らんふりするのも」

「……」

「離婚したからって、前の奥さんの子供とのライン、ブロックするのも」

「……」

「おれの誕生日は忘れていたのに、悠太の誕生日は一週間前から準備するのも」

「……」

「連れ子を腫れ物扱いするのも」

「……」

「子どもなのに、家族に大事にされないのも」

「つばめ」

「全部、変だよね……」

 だからこの学校に来れて良かったと、つばめはそう伝えたかった。近衛に会ったから、つばめはあの穏やかな地獄から、一時的にでも脱出することができたのだから。鼻をすすり、笑顔を作って、顔を上げたときだった。

「家族が仲悪かったらおかしいのか」

「え……」

 陣は口を尖らせていた。それがなんだか幼く見えて、つばめは拍子抜けする。

「お前考えすぎ。クソ親はクソ親、成人したらサヨナラ。それでいいじゃん」

 陣が、立ち止まったつばめの背を押す。温かい手が、バス停までのわずかな道のりを再開させる。

「……」

「なあ、お前が思ってるより、人間って薄情だぜ」

「え……」

「ふん、いまはいじらしくカーネーション買ってるやつだって、将来いざ親が動けなくなったら、誰が面倒見るんだとか、病院つれてったのは自分だとか、施設の費用はどうするとか、嫁が生意気だとか馬が合わないとか言うようになるんだよ」

 陣が、はん、と鼻で笑って見せる。

「家族を簡単に切り捨てるやつもいる。血が繋がってるから、無条件に愛情が存在するわけじゃない。おれはそう思う」

「陣……」

「お前は親ガチャ失敗しただけ。ほっときゃいいんだよ、そのうち関わらなくなるんだから。大してピアノうまくねえくせに、調子乗りやがってこのクソガキ、この親バカ、いやバカ親。そう思ってりゃいいの」

 特大の欠伸と共に、陣がつばめの頭を、くしゃ、とかきまぜた。

「お前はがんばったんだ。後ろめたく思うことは、なにもない」

 夏場の清流のようにさっぱりした言葉は、つばめの中にさらさらと流れ込んできた。

 つばめは思う。陣は基本的に口が悪い、でもそこに、誰かを傷つけようという意思はない。陣は誰より優しいのだ。だけど照れ屋だから、その優しさを少しばかり粗暴な言葉遣いで隠して、さりげなく伝えようとする。行き場のない思いを発散したいときも、わざと人から離れて、誰もいない方向へこぼす。そんな健気さに、つばめはまた涙がこぼれそうになる。辛く当たられるより、優しくされる方が心に響く。

「お前はおかしくなんてない。だから下を向くな」

 休日の晴れ間に賑わう街並みも、昔だったらきっと寂しかっただろう。この世界にたった一人になった気がしたからだ。でも、今日は違った。つばめは大げさではなく、それまで見ていた景色が、一気に彩度を増し、立体感のある存在として見え始めた気がした。揺れる木漏れ日も、汗ばむシャツも、白い肌に照り付ける日の光も。

「そうだよね」

「ああ」

「ほんと……そうだよね」

「ああ」

「陣は、すごいね」

 つばめが大切に抱えてきた常識やアタリマエを、たった一瞬でひっくり返してしまうのだから。

「ありがとう」

「別に。うじうじしてる奴が鬱陶しいだけだ」

 そう言ったまま、手はつばめの頭の上に置いたままだ。行き交う学生の好奇の目を、猛禽類のような目で蹴散らしながら、つばめのふわふわした黒髪に、さらに指を潜り込ませる。

 ねえ、陣は何があったの?――そう問うのはやめた。

 平均体温が高いこと。陣について、つばめが今日、知ったことだ。

「仕送りなんてしてやんねー」

「ふふ」

「将来、面倒なんかみてやんねー」

「宝くじが当たっても、分けてあげない」

「バカ、宝くじなんて買うなよ」

「なんで?」

「当たるわけないからだよ。お前、宝くじの還元率、知ってるか?」

「知らないけど……買わなきゃ当たらないじゃん?」

「こういうカモがいるからな……。いいか、ああいうのは胴元が儲かるようにできてるんだよ。儲けなんて期待できないの」

 そう軽口を叩く、目の前の彼をもっと知りたい。そんな思いを込めて、頭一つ分高い、陣を見上げる。だがそのとき、二台の自転車が、並走しながら二人のそばをギリギリで通り過ぎた。陣がそれを避けた拍子に、つばめは陣に抱きこまれる形になる。キャハハ、と言う笑い声だけが耳に届く。髪を弄っていた指が離れ、だが最後に中指が、耳の後ろを掠め、ぞくり、と体が震えた。

「あっぶねえな! クソが」

 二台は、追い抜いた二人のことなど我関せずとばかりに去って行く。だがつばめはそれどころではなかった。

「あ」

 思わず漏れた呻きに、陣が慌てたように体を離した。焦ったように口をぱくぱくさせている陣が珍しく見えたが、つばめにそれを笑う余裕はない。体が硬直したまま突っ立っていると、拗ねたようにぷい、と陣が顔を背ける。

「お前の誕生日って、いつなの」

 ふと、あさっての方を向きながら陣が尋ねる。

「え……三月十二日だよ」

「ふうん」

「ねえ、陣は?」

「七月二十日」

 つばめはその日付を、胸に刻み込んだ。火照った頬を冷まそうと、両手で覆う。ひんやりとした手に、頬はしっかりとその熱を移していた。

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