第10話

 それからの日々は、まさに矢のように過ぎていった。つばめは移動時間など、空いた時間はすべてバイトの業務を反芻する時間に充てていたから、思いのほかすぐに店の戦力になった。

 どんなに怒られてもめげなかった。つばめは陣のスパルタに必死に食いついて、二週間が経つ頃には、ほとんどの業務をそこそこのレベルでこなせるようになっていたのだ。佐倉曰く、まさに異例のスピードらしい。

「土日祝日は全員出勤。定休日は水曜。平日はワンオペになることも多いから覚悟しとけ」

「は、はい!」

 意外だったのは、陣の接客のうまさだ。いつも気だるそうな雰囲気なのに、不思議とその振る舞いには人を引き付ける何かがあった。だがしばらく陣といて、その謎は解けた――陣は客に「ここに来てよかった」と思わせることができるのだ。小さなことだけれど、最後に必ず「またお越しください」と言い添えるところとか、お釣りを渡すときに、一瞬だけ微笑むところとか。店を出るお客さんの表情が心なしか明るいのは、きっとそのおかげなのだろうと、つばめは思っている。

 一方で、仮屋探しにも注力した。万引きが起きた次の日には、つばめと陣は早速、C棟へ調査に向かっていたのだ。

 だが彼らの予想以上に、調査は難航を極めた。資料によれば、C棟の生徒数はおよそ三千人。ほとんど1Kとはいえ、三千戸を擁するマンション群は、数字で見るよりもずっとずっと壮大だった。もちろん、ひっそりと東の海辺に建つD棟とは比べ物にならない規模だ。

 メインエントランスはもちろんオートロック。そのほかの出入り口もしっかりと施錠され、二十四時間体制で警備員が駐在し、当該寮生以外は敷地内に入ることすらできない。そんな状況でたった一人、顔も知らない生徒を探し出すのはほぼ不可能のように思われた。

  二人は数日間、C棟やキャンパス内で仮屋探しを続けていたのだが、有益な手がかりを得ることはできなかった。とんでもない美人とすれ違うこともなかった。とはいえ、誰彼構わず仮屋について聞き込みをするわけにもいかない。もやもやとした思いを抱えたまま時だけが過ぎていき、二人は三日目で、C棟での調査を完全に諦めることになった。それからは新たな手がかりもなく、佐久間もあれから沈黙を守り続けていた。

 だがこの日、つばめはそんな焦燥感からは解放されていた。それは今日、五月十六日が、生まれて初めての給料日だったからである。時給千百ポイントのありがたみを嚙みしめながら、アプリに表示された残高を、いつもより濃い匂いの海風を吸いこみながら、つばめはかれこれ三十分以上眺めていた。

 たった十日分だったが、仕事を覚えるために連日頑張った甲斐のある金額だった。とはいえ、これが百万円でも千円でも、つばめの喜びは本質的には変わらなかっただろう――経済的な事情はともかく、自分の働きを認められたことへの喜びが、自分の想像以上に大きかったのである。早速コンビニで購入したおにぎりの、梅干の酸っぱさを感じていると、きっと世間から見たら大したことはない感動が、大きな波となってつばめの胸を埋め尽くした。

「なにニヤニヤしてんだよ」

「陣!」

 午後から交代でシフトに入る陣が、頭上からスマホを覗き込むようにして立っていた。つばめはうきうきした気分を隠さず、陣を見上げて言う。

「だって、今日お給料日だもん」

「ああ、そうだったっけか」

 つばめの熱意に反して、陣は随分とそっけない。だが彼がいまそれ以上のことで頭がいっぱいなのは分かっていた。つばめは立ち上がって、尻についた砂を落とす。それからスマホをずい、と差し出して言った。

「カフェオレ代。やっと返せるよ」

「あ? ああ……」

 虚を突かれたような顔をしたが、すぐに思い出したようで、陣がポケットを探り始める。

「……あれ、でもどうやってポイント渡せばいいの?」

 陣ははあ、と肩をすくめ、つばめの前で二人のスマホを操作し始めた。アプリから振り込み先アカウントをお互いに登録し、暗証番号を入力する。すると最終確認の画面を経て、550ポイント分が、陣のアカウントに送金された。残金はすぐに、アプリに反映される。

「以上。これで完了」

「へえ、こんなに簡単にやり取りできるんだね」

「カツアゲしても取引記録は残るぜ。プライベートの個人口座間で、一方通行の振り込みが続くと怪しまれるから、注意しろよ」

「そ、そんなことしないよ!」

 だが陣の密やかな笑い声は、海風と共に去って行った。陣の背中が佐倉堂の中へ消えていったのを見送ってから、もう一度、海に目を戻した。

 つばめは昔から、家族でどこか出かけたという記憶がほとんどない。ただ、幼稚園の頃に一度だけ、車に乗って海水浴場へ行ったのを、つばめは鮮烈に覚えていた。ピンクの桶を海の中に失くして泣いてしまったこと。まだつばめが、両親にとって唯一の宝物であったころ、打ち上げられていたコンブで父と遊んだし、母は日焼け止めをこまめに塗ってくれた。

 鼻がつんとしたのをごまかすために、よいしょ、と口に出して立ち上がる。コンビニに戻りゴミを捨てた。

 五月にしては珍しい晴れ間とあって、ここぞとばかりに人出が多かった。どの店にも人が溢れて、つばめは人波を縫うように、店を見て回った。ソフトクリームを手に歩く人に、買い物帰りなのか大きな荷物を持って歩く人、サイクリングを楽しむ人。を尻目に、ゆっくりと歩いていると、この島で唯一の、小さな花屋の前に出る。

「カーネーション……」

『Happy Mother`s Day』のポスターと共に、赤いレースを重ねたような花がちょこんと並んでいる。そこで初めて、つばめは今日が母の日であったことに気づく。去年、悠太と一緒にカーネーションを買ってあげたら、お母さんが本当にうれしそうな顔をしていたのを思い出した。

 たった一本の花が、母の心を明るくした、あの日からもう一年。つばめはぼんやりと、軒先の慎ましい赤を眺める。

 写真を撮って送ってみようか。

 そう思って、すぐに首を振る。いまのつばめには、母の一年前のような笑顔が思い浮かばなかった。どうせ自分なんかと、頭をもたげた卑屈を押し殺す。

 ごまかすように、赤いレースから目をそらした。つばめはそこで初めて、カーネーションに赤以外にも様々な色があるのに気づいた。ピンク、黄色、紫、白。白地に赤の斑点が刻まれているものまである。だがつばめの目を惹いたのは、日の光を浴びて健康的に輝くオレンジ色だった。

(きれいだなあ)

あのふてぶてしい横顔を思いだすと、それまでの葛藤が、少しだけ和らいだ気がした。

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